二百ミリ秒遅い声
午前零時五十分。広瀬昂紀は、サービス終了を控えたオンラインゲームへログインした。福岡にいる浅羽未央と作った海辺の家には、残り時間が赤く表示されている。あと十分。
二人が遠距離になった夜、この家を建てた。現実では買えない大きな窓と、二人分の椅子。未央が送ってきた白いコントローラーは、右の引き金が欠けている。初めて喧嘩した夜、投げて壊し、翌週「そっちで直して」と郵送してきたものだ。昂紀は接着剤の跡を隠さず使い続けた。背面には、未央が油性ペンで描いた二人のキャラクターが、手だけつないで残っている。海辺の家には、会えなかった休日ごとに一つ家具を増やした。最後に置いたのは、現実ではまだ買えなかった小さな食卓だった。
画面に未央のキャラクターが現れた。
《家、消そう》
「最後まで残すんじゃなかったのか」
音声通話の返事は少し遅れた。二百ミリ秒。東京と福岡の距離を、数字で意識する唯一の瞬間だった。
『もう、ここで暮らす必要ないから』
昂紀は椅子から手を離した。先月、未央は三度続けて会う約束を取り消した。転職活動だとだけ言い、会社も街も教えなかった。ゲーム内では別の仲間と行動する時間が増え、その名前が家の収納履歴にも残っていた。
「その人と新しい家を作るのか」
『何の話?』
「いいよ。消す」
昂紀は所有者メニューを開き、家の解体を決定した。家具が光の粒になり、最後に二脚の椅子が消える。
残り三分。未央の声が途切れ途切れに届いた。
『来週から東京……採用……だから、ここじゃなくて……』
回線表示を見ると、直接通話の音量がゼロになり、代わりに配信モニターの音を聞いていた。最後の記念映像を残すため、昼に自分で百二十秒の遅延を入れた設定だった。
巻き戻すと、未央は家が消える二分前に言っていた。
『東京で部屋を借りた。ゲームの家じゃなく、今度は本当に二人で暮らしたい』
収納履歴の別の名前は、不動産会社の担当者だと続いていた。
午前一時。世界が暗転する。未央から〈今の返事が答え?〉と届く。昂紀は否定を打ったが、送信ボタンがサービス終了の表示に覆われた。
彼は白いコントローラーからケーブルを抜き、未央の声が二百ミリ秒遅れて残る画面を閉じた。