仏間の敷居
小此木家の仏間には、梢だけが入れなかった。
「先祖代々の部屋に、他所の人を上げられない」
義母の菊代は線香を替えることさえ許さず、親族の相談が始まると襖を閉めた。夫の律弥は「昔の家だから」と笑って済ませた。
菊代に認知症の症状が出ると、閉じていた襖は急に開いた。
遠縁の甥や姪まで集まり、梢を仏間の中央に座らせる。
「ここへ住み込んで見守って」
「家は残したいから、施設費に使うのは反対」
「嫁なら恩返しできるでしょう」
彼らが守りたいのは菊代ではなく、広い土地と古い蔵だった。甥は蔵の骨董を、姪は庭を分ける相談まで始めている。誰も一晩さえ泊まりたがらないのに、売却だけは許さない。梢が有料の見守りを提案すると、「相続が減る」と即座に退けた。
梢は一通の封筒を卓上へ置いた。
菊代の年金通帳と印鑑が親族間を転々とし、必要な支払いさえ滞ったため、地域包括支援センターを通じて成年後見の申立てをしていた。家庭裁判所は、家族と利害関係のない専門職を後見人に選任した。
「勝手なことを!」
甥が立ち上がる。
「嫁のお前に家を売る権利なんかない」
「私にはありません。だから、私情で家を残したい皆さんにもありません」
襖が開き、選任された司法書士が入ってきた。菊代の安全を確保するため、見守りのある施設と契約し、その費用として空き家となる自宅を売却する方針を説明する。裁判所へ提出した収支計画も承認されていた。
律弥が梢へすがった。
「君が看れば、売らなくて済むんだぞ」
「私は、家にも家族にも入れてもらっていません」
司法書士は売買契約書を仏壇の前に広げた。買主は地域の福祉法人で、家は改修され、小規模な介護拠点になるという。
親族たちが声を上げる中、菊代の後見人は署名欄へ印を押した。
梢を拒み続けた仏間の敷居に、《所有権移転》の赤い判が重なった。
親族の取り分だけが、そこで消えた。