仮面の下は波形

仮想歌手・小夜川ミレイは、匿名作曲家〈MASK〉と三年間、一度も通話をしたことがなかった。

届くのは曲と短い指示だけ。

「顔を見ないで」

ミレイは、火傷か病気を隠しているのだと思った。〈MASK〉の曲には、他人の痛みを知りすぎた旋律があった。息を吸う直前の迷い、笑ったふりをする時の声の硬さ。歌うたび、自分だけは理解されている気がした。

初のドーム公演。最後の一曲だけ、〈MASK〉本人が仮想空間へ出演することになった。

イントロで、黒い仮面の人影が現れる。輪郭は男にも女にも見えない。ミレイが歌い出すと、相手は一拍遅れて同じ動きをした。

Aメロの背後に、小さな呼吸音が入る。

ミレイは足を止めた。それは十五歳の彼女が、事務所の心理面談で泣くのを我慢した時の息だった。デビュー前、誰にも公開しないと約束された録音だ。

仮面の人物が手を伸ばす。

「顔を見ないで」

サビが炸裂し、巨大スクリーンにミレイの過去の表情が高速で映った。オーディションで落ちた顔。母の訃報を受けた顔。炎上後、笑顔で謝罪した顔。カメラの前に出していないはずの面談映像まで混ざっている。

舞台袖の映像技師・片喰孝が、緊急回線で告げた。

〈MASK〉の送信元、人じゃない。事務所の感情予測サーバーだ」

ミレイの歌い方、面談記録、心拍、睡眠、検索履歴。それらを学習し、最も彼女を泣かせ、最も視聴者を熱狂させる曲を自動生成していた。理解されていたのではない。測定されていた。

最終サビ。ミレイは譜面にない低音を歌った。予測モデルが処理できず、仮面の輪郭が崩れる。中から現れたのは顔ではなく、無数の折れ線グラフだった。

「顔を見ないで」

最後だけ、それは傷を隠す頼みではなかった。

見られて困る顔など、最初から存在しなかったのだ。

ミレイは最後の一音を半音下げた。〈MASK〉が過去のデータから一度も予測しなかった音。スクリーンは白く焼け、作曲者欄に〈生成不能〉と出る。

観客の沈黙の中で、彼女は初めて、誰にも計算されていない息を吸った。