伴奏だけを覚えている

同窓会場の隅にあるピアノは、一音だけひどく低かった。

香苗が確かめるように鍵盤を押すと、昔の音楽室が戻ってきた。卒業式の合唱練習。独唱を任された環は、最後の通し稽古で声が出なくなった。

誰かが笑い、誰かが「早く」と急かした。伴奏者だった香苗は、止める合図を無視して弾き続けた。歌のない旋律を埋めるように、いつもより強く。

あとで環に「助かった」と言われたが、本当は違う。香苗は沈黙が怖かっただけだ。自分が弾いているあいだは、誰も環を見つめずに済む。そして香苗自身も、何を言えばいいか考えなくて済んだ。

大人になってからも同じだった。職場で揉め事が起きれば資料を整え、家族が言い争えば食事を作った。音を絶やさなければ、崩れないと思っていた。

「卒業の歌、弾いてよ」

同級生に囲まれ、香苗は断れず椅子に座った。ざわめきが静まり、環も輪の外に立った。彼女は今、地方の図書館で働いているという。それ以上の近況を、香苗はまだ聞いていない。

前奏を弾く。低い一音が混じり、十年前の音楽室と同じように胸が詰まった。歌が始まる直前、環と目が合った。

環は歌わなかった。ただ、小さく首を横に振った。

香苗は二小節目で手を止めた。

会場に空白が落ちた。誰かが戸惑い、やがて一人で歌い出した。別の声が重なり、音程の外れた合唱が続く。ピアノがなくても、歌は途切れなかった。

香苗は椅子を離れ、環の隣へ立った。二人とも歌わず、笑いもせず、最後まで聞いた。

曲が終わると、環が「今度は止まれたね」と言った。香苗は頷いた。

帰りの電車で、上司から「明日の会議もまとめておいて」と届いた。いつものように引き受ける文面を打ちかけ、消す。

「担当を分けてください。私は自分の資料だけ準備します」

断ったことで会議が止まるかもしれない。それでも、止まったあとに誰かが自分の声で続きを始めると、今は信じられた。

送信後の画面は静かだった。その静けさを、香苗は初めて伴奏で埋めなかった。