保留音が消えた朝
午前九時、コールセンターの壁にある応答数モニターが一斉にゼロになった。
古海澪花はヘッドセットを外し、机の中央へ置いた。周囲の八十席でも同じ動作が続く。受電中の客には別拠点への転送案内を終えてから、全員がログアウトしていた。
雪村雄造社長がガラス張りの部屋から飛び出した。
「誰の許可で休憩してる!」
「休憩ではありません。退職です」
澪花が封筒を差し出す。
雪村は、罵声を浴びた社員を「電話に出るだけ」と評価し、トイレの時間まで成績表にした。退職を口にすれば、「声の替えなら明日集まる」と笑った。
その日は最大顧客の新サービス開始日だった。雪村は社員を見回し、勝ち誇ったように受話器を取る。
「契約違反で損害賠償だ。顧客はうちを選んだんだぞ」
大型画面に、その顧客企業の執行役員が映った。
「選んだのは古海さんが設計した応対体制です」
画面の下に契約解除通知が表示された。顧客は前月から、澪花たちが設立した新会社の別拠点で引き継ぎ試験をしていた。今鳴っている電話は、すべてそちらへ転送されている。社員が席を立ったあとも、利用者の問い合わせは一件も切れず、新拠点の画面には待ち時間二十秒と表示されていた。
「勝手なことを」
「御社が昨夜、品質管理者全員を降格すると通知したため、事業継続条項を発動しました」
そこへ労働基準監督署の職員が入ってきた。机の裏に保存された録音には、サービス残業を命じる雪村の声と、応答数を改ざんする指示が残っている。未払い賃金の申告者は退職者だけではなく、過去三年の在籍者にも広がっていた。
雪村の携帯へ銀行から着信が入る。売上の七割を占める契約の消滅を受け、当座貸越を停止するという。
「一日だけ戻れ。金なら払う」
澪花は静まり返ったフロアを見渡した。
「払うべき日に払っていれば、電話は鳴り続けていました」
大型画面で新拠点の応答率が九十九パーセントに変わる。旧会社のモニターがゼロのまま固定された瞬間、雪村の会社には、保留にできる明日さえなくなった。