債務者は午後六時に飛ぶ

午後五時五十二分、祢津寛人は屋上扉の前で安物の朱肉を開いた。回帰アプリは〈試行可能回数一〉

縁に立つ秋庭誠市が、百円ショップの印鑑を握っている。

「判子は、どこに押せばいい」

誠市は債務整理書へ捺印した直後、書類の細字を読んで飛び降りる。寛人は十一回、八分前へ戻った。

細字には、自宅だけでなく母親の介護保険金まで担保に取る条項があった。寛人はそれを隠して契約を取る担当者だった。条項を破った回、上司が予備契約書を持ってきた。誠市を力ずくで下ろすと、警備員が帰った隙に別の階から飛んだ。金を肩代わりすると言っても、寛人の年収では数字が足りなかった。

成功条件は十八時まで誠市を屋上扉の内側へ入れること。最後の回帰を失えば、その三秒後に身体が落ちる。

また同じ声。

「判子は、どこに押せばいい」

寛人は債務整理書ではなく、社内監査宛ての告発書を床へ置いた。架空の手数料、偽造した本人確認、上司の指示。そして自分が十一件の違法契約を成立させた事実を、すべて記した。

「ここです」

誠市の印鑑ではなく、寛人自身の実印を押す。送信ボタンを押すと、監督官庁と報道各社へ同時に添付された。

「会社ごと潰れるぞ」と駆けつけた上司が叫んだ。

「俺も一緒です」

誠市は縁から下りた。十八時のチャイムが鳴り、秒針は先へ進んだ。

翌月、寛人は特別背任と文書偽造の容疑で起訴された。誠市から礼状は来なかった。必要もなかった。

送信直後、社用端末は遠隔操作で初期化され始めた。寛人は屋上の監視カメラへ告発書を広げ、消去される前の画面と一緒に映した。誠市は判子をポケットへしまい、「あんたを許したわけじゃない」と言った。寛人はそれでよかった。許しを得るための八分なら、また誠市を自分の都合に使うことになる。下の道路へ近づくサイレンを聞きながら、両手を屋上の床へついた。

誠市の母の施設には、差押え解除の通知が翌朝届いた。寛人はその結果だけを留置場で聞き、担当者名の欄に自分がいないことを確認した。

証拠品の透明袋には、乾いた朱肉と、寛人の名が赤く欠けた告発書が入っていた。