優しい怒鳴り声
鵜沢珂乃の職場には、怒鳴る人がいなかった。会話調整AIが攻撃的な声を穏やかな音色へ変え、侮辱語を建設的な表現に置き換えるからだ。部長が机を叩いても、珂乃の耳には「次はもっと注意しましょう」と柔らかく届いた。
それなのに、部長と話す日は胃が痛み、帰宅すると手が震えた。医療AIは「理由のない不安」と診断し、珂乃へ鎮静刺激を処方した。周囲も、あんなに物腰の柔らかい上司を怖がるのは考えすぎだと言った。珂乃自身も、自分の弱さを恥じた。
ある午後、社内網が停止した。部長はいつものように書類を投げた。今度は補正されず、「役立たず」「辞めろ」という声が部屋を裂いた。珂乃は驚いたが、身体は驚かなかった。胃の痛みも震えも、その声をずっと知っていた。
同僚たちは耳を塞ぎ、数分後にシステムが戻ると何事もなかったように働き始めた。記録には、部長の発言が「改善を促す助言」として保存されていた。原音は社員保護のため即時廃棄される。優しい声だけが証拠になった。
停止を経験した同僚の一人は、「聞かなかったことにしたい」と言った。原音を認めれば、何年も耐えた自分や、後輩を残してきた責任まで見えてしまうからだ。珂乃も同じだった。優しい声を信じたかったのは、会社に騙されたからだけではない。これが暴力なら逃げるべきだと、身体がずっと告げていた事実を認めるのが怖かった。
珂乃は机の引き出しへ古い磁気録音機を置いた。次の停止時に原音を残し、労働局へ持ち込んだ。会社は規約違反で彼女を解雇したが、部長の処分と制度調査が始まった。
転職後も、穏やかな声を聞くと身構えた。新しい上司が「今日は帰っていい」と言っても、裏に罠がある気がした。珂乃は声ではなく、翌日も同じ扱いをするか、断ったときに態度を変えないかを見た。
半年後、その上司が珂乃の失敗を低い声で叱った。言葉は厳しかったが、人格は傷つけず、修正を一緒に考えた。珂乃の胃は痛まなかった。人の優しさは音色ではなく、逃げ道を残すことだと彼女は知った。