兄を救わなかった手
月見里槙人の右手には、十五年間、川の冷たさが残っていた。
十六歳の夏、弟が流された。槙人は岸から動けず、弟は死んだ。罪悪感治療AIは最終手段として、別の選択をした本人を呼び出した。
画面の槙人には右手がなかった。
「助けたんだな」
「途中まで」
向こうの世界では、槙人は川へ飛び込み、弟を岸へ押し上げた。自分は岩に挟まれ、手を失った。弟は生きたが、救われた負い目から家を出て、今は消息不明だという。
「それでも、生きてる」
「だから何だ」
「俺よりましだ」
「おまえは俺を、都合のいい英雄にするな」
向こうの槙人は怒鳴った。手を失った後、家族は彼を勇敢な兄として祭り上げた。弱音を吐けば弟を責めることになる。恋人にも介助されるたび、あの日の選択を褒められた。
「俺は飛び込んだことを後悔した日がある」
「言うな!」
「おまえも、飛び込まなかった一秒だけで十五年全部を決めるな」
槙人は端末を殴ろうとして、拳を止めた。ずっと憎んでいた右手は、何もしていない手ではなかった。葬儀で母を支え、父の遺品を片づけ、弟の名を何百枚も書いた手だった。
通信の最後、二人は同じ問いを口にした。
「弟に会えたら、何て言う?」
向こうは「逃げていい」と答え、こちらは「ごめん」と答えた。どちらも弟が望む言葉ではないかもしれなかった。
翌月、槙人は川辺の水難防止教室で補助員を始めた。子どもを水に入れず、岸から投げる救助具の使い方を教えた。
初日、一人の少年が尋ねた。
「先生は、誰かを助けたことある?」
槙人は右手でロープを巻きながら答えた。
「まだない。だから、次は手を伸ばせるように練習してる」
教室の三か月目、母が遠くから見学に来た。帰り際、弟の遺品だった古い救助ロープを差し出し、「あの子の兄だけでいなくていい」と言った。槙人は受け取れず、二人で倉庫へ寄贈した。手放す作業も、右手で行った。
その日から槙人は名札の「先生」を消し、子どもたちと同じ「訓練生」と書いた。