冷たい器の熱い珈琲

陶芸家の陶山が工房で撲殺され、壁時計が十時を打つ直前に発見された。編集者の藤枝は「九時四十分まで本人と打ち合わせをし、二人で珈琲を飲んだ」と証言した。机には二つの白いカップがあり、陶山の一杯からはまだ湯気が細く上がっていた。

容疑者は藤枝、別居中の妻・奥津、弟子の戸川。奥津は作品の所有権を争い、戸川は破門を告げられ、藤枝は前払いした原稿を一行も受け取っていなかった。奥津は八時半、戸川は九時に工房を去り、藤枝の証言が正しければ二人には犯行時間がない。だが検視では、死後一時間以上たっている可能性も捨てきれなかった。二杯の湯気だけが、死亡時刻を九時台へ押し戻していた。

刑事の土岐は温度計だけを借りた。

「二つのカップが、三つの手掛かりを残しています」

一つ目。陶山の珈琲は六十一度なのに、カップの外側は十二度しかない。工房の窓辺と同じ温度だった。

二つ目。藤枝のカップの内側には、満杯に近い位置と半分の位置、二本の乾いた珈琲線がある。

三つ目。電気ケトルは冷たく、コンセントも抜かれたまま。最後に沸かした時刻を示す表示は八時十二分で止まっていた。

奥津と戸川は互いの退室時刻を責め合い、工房には焼成前の土の匂いと冷えた沈黙が満ちた。土岐は言葉の応酬を止め、三つの物理だけを机上に残した。

藤枝は鼻で笑った。

「電子レンジで温め直しただけでしょう。陶山先生は冷めた珈琲を嫌った」

「ええ。液体だけは温め直せます」

土岐は陶山のカップを掌に載せた。湯気と冷たい磁器が、同じ時刻を指していなかった。

「あなたは八時台に陶山さんを殺し、残っていた珈琲を自分のカップへまとめて電子レンジで温めた。その半分を、窓辺で冷やしておいた陶山さんのカップへ移したのです。だから液体だけ熱く器は冷たい。藤枝さんのカップには一度満杯だった線と、分けた後の線が残り、ケトルは九時台に湯を沸かしていない。二杯を“作った”のではなく、一杯を移しただけです。湯気は生存証明ではなく、あなたが死後に作った時刻の偽装でした。器と中身の温度が一致しない限り、その一杯は陶山さん自身が飲もうとして注いだものではありません」