冷たい鶏皮ポン酢

夜勤明けではなく、夜勤へ向かう前だった。

介護施設で働き始めて二年。人手不足で、今月は六回目の夜勤になる。昨日、入浴介助中に利用者の腕を強く引いてしまった。転倒はなかったが、「痛い」と言われた声が耳から離れない。辞表の下書きを作ったのは、その帰りだった。勤務表を見るたび胸が詰まり、休みの日にもナースコールの音を思い出す。けれど利用者の名前や薬の時間だけは、辞めたい頭の中にも正確に残っていた。

駅前の居酒屋に初めて入ると、奥に一人、手の甲がひび割れた常連がいた。紺色の作業服で、店主が出した温かいおしぼりを、掌ではなく指の節に一つずつ当てている。僕の職員証が鞄から落ちると、その人は拾わず、靴先で踏まれない場所へそっと寄せた。

頼んだのは鶏皮ポン酢だった。湯通しした皮は冷たく締まり、箸で持つと細く震えた。柑橘の酸っぱい匂いに、刻み葱の青さが混じる。噛めば、こりこりした歯応えのあとに、冷えた脂が舌の温度でほどけた。

「今日は温かいのじゃなくていいの」

店主に聞かれ、僕は「熱いもの、急いで食べる気がしなくて」と答えた。

「なら、これで正解」

店主はそれ以上聞かなかった。

奥の常連が、おしぼりをたたみ直した。指のひびにしみたのか、眉が少しだけ動いた。それでも捨てず、もう一度手の甲へ当てる。痛みを見せないのではなく、痛いところに合わせて使い方を変えているように見えた。

辞めたい気持ちは本物だった。ただ、昨日の一件と、仕事そのものを続けられないことを、僕は一つにまとめていた。明日、主任へ辞表を出す代わりに、まず夜勤回数を減らせないか相談する。入浴介助の手順も、もう一度見てもらう。それで駄目なら辞める。順番を戻すだけだ。

スマートフォンの下書きから『退職願』の三文字を消し、『面談希望』と書き換えた。

常連は帰り際、職員証の位置を目で示した。僕が拾うと、一度だけ頷いた。

最後の鶏皮は、最初より酸味が丸くなっていた。冷たい皿なのに、噛み終えた喉の奥には、柑橘と脂の小さな温度が残った。