利用目的は赤の下
住宅情報サイトの顧客データ提供会議で、霜月坂颯真は契約書を電子化する派遣スタッフとして、九千四百四十人分の閲覧履歴を前にしていた。買い手は住宅ローン会社。年収、家族構成、内見先から融資見込みを選別するという。
サイト運営会社は、会員規約で第三者提供に同意済みだと説明した。提供料は二億円。法務部長は、赤い同意印が押された規約改定確認書を示した。
颯真は紙を斜めから見た。赤い印影の上に、「金融機関への閲覧履歴提供」という黒い文字が乗っている。
通常は文書を印刷してから押印する。朱肉が文字の上を覆うはずだ。黒いトナーが朱肉を隠しているなら、空欄へ先に印を押し、後から利用目的を印刷したことになる。
法務部長は、再印刷した控えだから順序が違うだけだと答えた。
颯真はスキャン前の原本画像を出した。同じ場所は空白で、会員の同意対象は「物件案内の最適化」まで。金融機関への提供は書かれていない。改変版の作成時刻は、押印日の三か月後だった。
さらにデータには「別居準備」「現住所へ郵送不可」という相談メモが残っていた。家庭内暴力から避難する利用者が、秘密に探した物件まで融資会社へ渡る。
部長は、融資提案が利用者の利益になると主張した。
颯真は提供契約の保証欄を指した。
「利益になるかを決める前に、利用目的を本人へ見せる必要があります」
派遣元の上司は仕事を失うぞと囁いたが、颯真は電子化確認印を押さなかった。
買い手の融資モデルには「離婚準備」「転居秘匿」「単身化予測」という列が追加されていた。颯真は、赤い印の下へ足された一行が、単なる住宅案内ではなく、弱い立場の利用者を金融商品へ選別する入口になっていると説明した。法務部長は初めて資料から目をそらした。
ローン会社の担当役員が契約書を閉じた。赤い印の下へ後から差し込まれた一行が、九千四百四十人の生活を二億円で開く決裁を止めた。