削除されたブレス
音声修復家の石動藍佳は、失踪した歌い手の曲から呼吸だけが消されていることに気づいた。
新人の夕凪ミアは、デビュー前日に姿を消した。事務所は重圧から逃げたと発表し、残された一曲を追悼配信するという。だが納品されたマスターは不自然なほど滑らかだった。吸う音も、唇が離れる湿った音もない。人間が歌った痕跡だけが、きれいに削られている。波形は美しかったが、藍佳には棺の中を磨き上げたように見えた。
編集メモには一行。
「息を消して」
藍佳は公開前の最終試聴で、ノイズ除去を逆方向へ回した。イントロの無音に、布が擦れる音が戻る。Aメロでは、押し殺した吸気が一定の間隔で並んだ。短く二回、長く一回。偶然ではない。
「息を消して」
事務所代表は、歌唱の邪魔だから元へ戻せと命じた。公開まで十分しかない。代表は契約違反をちらつかせ、修復前のファイルを消すよう迫った。藍佳は無視し、呼吸だけを最大まで持ち上げた。ミアは音程の隙間で、数字を刻んでいる。四、八、三。休符。白、二、七。車両番号と、港湾倉庫の区画を示す符号だった。
サビへ入ると、呼吸の奥から男の声が浮いた。
〈騒ぐな。息を消せ〉
続いて、車のスライドドア、結束具の金属音、代表がミアへ契約書への署名を迫る声。彼女は監禁されたまま仮歌を録らされ、マイクへ直接言葉を残せない代わりに、息の長短で居場所を打ち込んでいた。
代表が配信卓のケーブルを抜こうとする。藍佳は本番回線へ切り替えた。数万人の端末へ、削られた呼吸が一斉に流れる。コメント欄では符号を解いた視聴者が、倉庫番号を繰り返した。
最後の一音のあと、曲とは別の通信音が入った。数分前に現場へ着いた捜査員の無線だった。
〈対象者を保護。呼吸あり〉
藍佳はヘッドホンを外した。代表は逃げようとしたが、スタジオの外にはすでに警察が立っている。
再生画面の編集メモが、三度目に表示される。
「息を消して」
音を美しくするための指示ではない。ミアを人間ではなく音源にするため、呼吸も抵抗も存在も消せと命じた犯人自身の言葉だった。