削除するのは自分
二十三時五十分、高槻諒真の記憶保管アプリが銀色に光った。
〈五十七歳のあなたより。午前零時までに一ギガバイト削除しろ〉
翌朝、諒真は脳腫瘍の手術を受ける。術後に失うかもしれない記憶を、民間クラウドへ退避している最中だった。端末の横には真鍮の鍵。父が生前、何度も言った。
「鍵はなくすな。帰る場所まで分からなくなる」
容量は残りゼロ。諒真は高校時代の失恋を削除した。空きは増えたが、零時になった瞬間、病室が二十三時五十分へ戻った。
〈一ギガバイト削除しろ〉
二度目は浪人した一年。三度目は父と喧嘩した夜。削除した直後だけ、胸にあった痛みが輪郭ごと消える。それでも時計は戻り、真鍮の鍵が同じ角度で机に置かれた。
差分を重ねるうち、未来の自分が削除を勧める記憶には共通点があると気づいた。会社の不正を知った日、親友を裏切った日、父の最期に間に合わなかった日。五十七歳の諒真にとって都合の悪いものばかりだ。
〈成功条件:未来同期領域を一ギガバイト確保〉
新しい通知が届く。未来同期領域とは、手術後の諒真へ記憶を戻す場所ではない。五十七歳の自分が過去へ通知を送るため、現在の脳内に確保する通路だった。
「鍵はなくすな」
録音された父の声を再生する。未来の自分は、その記憶だけは消すなと三度命じた。父の声が自分を戒める限り、未来の諒真は「まだ自分はまともだ」と信じられるからだ。
十三回目。諒真は削除候補を一件ずつ選ぶのをやめた。設定の最下部にある〈本人プロファイル〉を開く。氏名、顔、家族関係、価値観、未来同期鍵。合計一・四ギガバイト。
〈削除すると、復元後に自己同一性を保証できません〉
未来から通知が荒れた。
〈それは俺たちだ〉
〈父さんの声も分からなくなる〉
〈手術後、お前は誰にも戻れない〉
諒真は真鍮の鍵を握った。鍵の名前も、どの家のものかも失うかもしれない。それでも、都合の悪い記憶だけを切り捨てた人物として生き延びるよりはよかった。
「帰る場所を、未来のお前に決めさせない」
〈本人プロファイルを完全削除〉を押す。父の声、会社名、自分の署名が順に意味のない音と線へ変わった。未来通知の送信者欄も〈不明〉になる。
零時一分。時間は戻らなかった。
看護師が入ってきて、真鍮の鍵を指した。
「大切なものですか」
諒真には答えが分からない。だから鍵を手のひらへしまい、明日の自分が初めて選ぶ言葉を待った。