前髪だけの金曜日

千尋は洗面台の鏡に向かい、前髪を指でつまんだ。

目にかかる。朝はピンで留めれば済むけれど、午後になると細い毛が落ちてくる。美容院の予約ページを開くと、いつもの店のカットは五千五百円だった。給料日まで五日。口座にある金額から家賃と通信費を引けば、その五千五百円は存在しないのと同じだった。

予約ページを閉じる。代わりに動画サイトで「セルフ前髪カット 失敗しない」と検索した。再生回数の多い美容師が、少しずつ切ってください、と何度も言う。

千尋は文房具のはさみを出しかけ、やめた。刃の間にテープの粘着が残っている。前髪を切って、失敗して、結局美容院に駆け込む未来が見えた。

洗面台の横には、今朝外したヘアピンが一本置いてある。黒くて、塗装が少し剥げていた。大学のころから使っているものだ。きれいに見せるための道具というより、とりあえず視界を確保するための部品になっている。

千尋は鏡の中の自分を見た。頬にマスクの跡がつき、眉も片方だけ薄い。職場のトイレでは、誰かが新しいリップやまつ毛美容液の話をしていた。聞いているうちに、自分だけ手入れを怠っている気がして、帰り道はずっと顔を隠したかった。

お湯を出し、前髪だけを洗う。シャンプーをほんの少し泡立て、ドライヤーで根元から乾かした。寝ぐせが取れると、思ったほど長くない。目の上で自然に横へ流れた。

引き出しの奥から、青い細身のピンを見つけた。買ったものの派手に思えて使わなかった一本だ。留めてみると、青はほとんど髪に隠れ、角度によって少しだけ光った。

美容院に行けない事実は変わらない。髪も急に整ったわけではない。それでも鏡の前に立つ時間を、反省会だけにしなくてもいい。

千尋は予約ページのブックマークを残したまま閉じた。給料が出たら行く。今夜は切らない。それも、ちゃんとした身だしなみの選択だと思うことにした。

青いピンを外さずに、千尋は簡単な夕飯を作った。鍋のふたに映る青い点が、動くたびちらついた。誰にも会わない夜に新しいものを使うのは、少しもったいないと思っていた。でも、最初に見せる相手が自分でもよかった。

髪はまた伸びる。予約できる日も来る。今夜は鏡から目をそらさずに済んだだけで、十分だった。