北口のロッカー
蓮見杏珠は、駅の北口と南口に一つずつ荷物を預けた。
北口のロッカーには、転職先の最終面接で使ったパンプスと、内定通知のコピー。南口には、今の会社の作業靴と、退職を迷って持ち帰った私物が入っている。
内定先は、新幹線で二時間半の町にある工房だった。商品開発を学べる代わりに、給与は下がり、知り合いのいない土地へ移る。返答期限は今日の二十三時五十九分。
杏珠は二枚のロッカー鍵をコートのポケットで鳴らしながら、駅ビルを何周もした。北口へ行けば、知らない町への切符を買う。南口へ行けば、明日も今の職場へ作業靴を履いていく。
二十九歳まであと三か月。年齢はただの数字だと口では言えるのに、求人票の「若手活躍中」が自分を締め出す予告のように見えた。今行かなければ二度と行けない。そんな焦りで選ぶのも嫌だった。
ベンチで内定メールを読み返す。最後の面接で工房長は「来てくれたら嬉しい。でも町が合わないなら、仕事だけで決めないで」と言った。親切な言葉なのに、決定を預ける先がなくなった気がした。
ホームへ上がる階段の途中で、杏珠は一度引き返した。転職先の町の天気を調べると、冬は今より雪が多い。駅から工房まではバスが一時間に二本。暮らしの不便を知るほど決意は鈍ったが、それを知らずに飛び込むより、鈍ったまま選ぶほうが自分には誠実だった。
閉店の音楽が流れた。杏珠はまず南口へ向かった。作業靴を取り出し、ロッカーを空にする。残るためではない。退職するなら、最後まで自分の道具を持ち帰るためだ。
次に北口でパンプスを取り出し、駅の窓口へ行った。転職先の町まで、来月一日の片道切符を買う。承諾メールはホームで送った。
電車が来ても、杏珠は乗らなかった。今日はまだ帰る場所がある。引っ越しも退職もこれからだ。怖さは減っていない。
二枚のロッカー鍵を返却箱へ落とすと、硬い音が二度した。杏珠は片道切符だけを財布に残し、その先で迷う権利ごと自分のものにした。