十秒前のボタン
言葉を言い間違えたとき、押せば十秒前へ戻れるボタンが売られていた。
ただし戻るたび、相手が最初に見せた表情だけは、この世界から消える。
新婚の夫は、妻との会話に使った。
「夕飯、これだけ?」
妻の顔が曇る。
ボタンを押す。
十秒前へ戻り、
「忙しいのに作ってくれてありがとう」
と言い直す。
妻は笑った。
最初の曇った顔は、夫の記憶からも消えた。
便利だった。
母へ。
同僚へ。
友人へ。
失言をなかったことにし、いつも正しい言葉を選んだ。
夫は「話し上手」と言われるようになった。
誰も傷つけない。
喧嘩にもならない。
けれど妻は、少しずつ黙るようになった。
何を言っても、夫が最適な返事をする。
驚きも、困惑も、怒りも見せない。
会話が台本のようになった。
ある夜、妻が妊娠したと告げた。
夫は驚き、
「今?」
と口にした。
妻の顔に、喜びと不安と傷つきが同時に浮かんだ。
夫は反射的にボタンを押した。
十秒前。
妻がもう一度、
「赤ちゃんができた」
と言う。
夫は完璧な笑顔で抱きしめた。
妻も笑った。
だが夫は、最初の妻がどんな顔をしたか思い出せない。
喜んでいたのか。
怖がっていたのか。
何を聞いてほしかったのか。
その夜から、妻の表情が平らに見えるようになった。
ボタンで消したのは一瞬だけのはずなのに、相手の本音を読む手がかりまで失っていた。
出産前、妻が言った。
「あなたはいつも正しい。でも、私が何を感じたか、一度も間違えて聞いてくれない」
夫はボタンを机へ置いた。
「怖い?」
「うん」
「嬉しい?」
「うん」
「僕の最初の言葉、傷ついた?」
妻は黙ったあと、
「うん」
と答えた。
夫は謝った。
正しい言い方ではなかった。
途中で自分を弁護し、妻に怒られ、また言い直した。
ボタンには触れなかった。
子どもが生まれてから、失言は増えた。
寝不足で互いにひどいことを言い、翌朝謝った。
最初の表情は消えずに残った。
だから、次にどこで止まればいいか少しずつ分かるようになった。
ボタンは子どもの玩具箱に入れず、金庫へしまった。
いつか使いたくなる日が来るかもしれない。
それでも夫婦は、十秒前へ戻るより、言ったあとに相手の顔を見る方を選んだ。
言葉の失敗は消せない。
けれど消さなかった顔が、次の言葉を教えてくれる。