午後三時の卒業発表
桐谷千紘は、市役所の窓口で泣かない人だった。
怒鳴る来庁者にも、積み上がる申請書にも、表情を変えない。だから誰も、千紘が六人組アイドル〈Ciel〉の颯真を七年間応援しているとは知らなかった。デスクの引き出しには、青い会員証だけが眠っている。以前、芸能人の活動休止で泣いた同僚を『仕事に私情を持ち込むな』と責める声を聞いてから、千紘はライブ翌日にも眠そうな顔を見せなかった。颯真に救われた夜ほど、翌朝はきれいに口紅を引いた。
午後三時、住民票を発行している最中に腕時計が震えた。
〈颯真より大切なお知らせ〉
通知の文面だけで分かった。休止でも新曲でもない。恐る恐る開くと、卒業の二文字があった。
プリンターから住民票が出てくる。千紘は番号を確認し、来庁者へ差し出した。声は崩れなかったが、一枚多く取った薄紙が指の中で震えた。
窓口にいた年配の女性、坂東喜久江が受け取らずに言った。
「お嬢さん、今、悲しい知らせを見たでしょう」
千紘は勤務中ですから、と笑おうとした。喜久江はバッグから未使用のハンカチを出し、カウンターの端へ置いた。
「好きな人の門出は、嬉しいだけじゃないものね」
颯真を知らない人の言葉だった。それでも、隠していた悲しみに名前を付けてもらえた。
休憩室で、千紘は青い会員証を握った。最終公演は平日。これまでライブのたびに「家庭の都合」と書いて休暇を取っていた。申請画面を開き、理由欄にカーソルを合わせる。
〈Ciel・颯真卒業公演参加〉
入力したところで、後輩の古賀依子が入ってきた。画面を隠そうとした千紘に、依子は翌日の窓口交代を申し出た。
「理由は言わなくて大丈夫です。でも、言いたいなら聞きます」
千紘は会員証を机へ置いた。
「私の推しが、卒業するの」
初めて職場で使った「推し」という言葉は、泣き声にならなかった。申請ボタンを押すと、青い会員証の上へ、喜久江の白いハンカチが静かに重なった。