古い姓のレシート
凪沙が父と昼食を取ったのは、区役所の地下食堂だった。
手続きの帰りらしい父は、透明な封筒を脇に置き、食券機の前で言った。
「安西、何にする」
凪沙は振り向かなかった。
もう一度、「安西」と呼ばれた。父と同じ、去年までの姓だった。
「羽鳥です」
「ここでまで他人行儀にするな」
「名前を変えたのは、他人になるためじゃない」
「じゃあ何のためだ」
「今日、その説明はしない」
父は舌打ちを飲み込むような顔で、二枚の食券を買った。凪沙は一枚を受け取らず、自分の財布から硬貨を入れた。ざるそばの券が出る。父はカツ丼だった。
二人は壁際の小さなテーブルについた。父は封筒から住民票を出し、何度も折り目を直した。
「母親の姓に戻したところで、育てたのは俺だ」
凪沙はそばつゆの蓋を開けた。海苔の匂いが上がる。
「戻したんじゃない。選んだの」
「同じことだろ」
「お父さんの中ではね」
父は箸を割るのに失敗し、片方だけ細く裂けた。店員へ替えてもらうでもなく、そのまま使った。昔なら、店のせいにして声を荒らげただろう。凪沙はその変化を見つけたが、口にはしなかった。変わった点を褒めれば、変わっていない部分まで許したことにされそうだった。
食べ終わるころ、父が尋ねた。
「郵便はどうする。家にまだ安西名義が届くぞ」
「転送を出した。残ったものは捨てていい」
「卒業証書もある」
「それは今度、宅配で」
「取りに来ないのか」
「受け取るものと、会うことは分けたい」
会計口で、食券とは別に領収書を頼んだ。店員が宛名を尋ねる。
「羽鳥凪沙でお願いします」
父は隣で黙っていた。
印字された紙を受け取ると、父が小さく言った。
「字は、どう書く」
凪沙はレシートの余白へ、羽鳥と書いた。父はそれを一度見て、自分の手帳に同じ二文字を写した。線は少し震えていた。
「間違えたら悪いからな」
謝罪ではなかった。凪沙も、そう受け取らなかった。
「次は、この名前で呼んで」
父は手帳を閉じた。
食堂を出るとき、背後から「羽鳥」と声がした。名字だけだったが、古い姓ではなかった。
凪沙は振り返り、「はい」と一度だけ答えた。