名前のないデモテープ
榊原夕映が歌い終えると、野々村圭吾は録音機の停止ボタンを押した。
「今の、採用」
「バンドがなくなるのに?」
「なくなるからだよ」
大学近くの貸しスタジオ。五十嵐朔也はスネアに肘をつき、赤いカセットテープを眺めていた。ラベルには曲名だけがあり、バンド名の欄は空白だった。圭吾は録音日だけを書き込み、夕映はその数字を指でこすった。日付が題名より先に、三人の終わりを決めているように見えた。
三人は二年間、名前を決められなかった。候補を出すたび誰かが嫌がり、ライブのフライヤーには毎回〈名称未定〉と印刷された。そのまま卒業が来た。
「夕映、市役所って髪色これで平気?」
「来週黒くする。歌も今日で終わり」
「言い切れるんだ」
「言い切らないと、朝起きられないから」
圭吾は四月から録音スタジオの見習いになる。演奏する側ではなく、他人の音を整える側だ。
「圭吾は勝ち組じゃん。毎日音楽」
「人の失敗を消す仕事だよ。俺たちみたいなバンドを、うまく聞かせる仕事」
朔也はスティックを指の間で転がした。彼だけは就職先を言わなかった。
「で、朔也は?」
「曲を書く。名前は出さない。配信者とかアイドルとか、必要な人に売る」
「自分で歌わせないの?」
「俺の歌じゃ売れない」
夕映が何か言いかけ、マイクから離れた。三人とも、励ましが侮辱になる境目を知る年齢になっていた。
最後の練習は録音になった。圭吾がレベルを見て、朔也がカウントを出し、夕映が一度だけ目を閉じる。曲は、誰かに名前を呼ばれたい人の歌だった。
テイクの最後、夕映の息がわずかに震えた。圭吾はそこを切らなかった。朔也も録り直しを求めなかった。
「ラベル、どうする?」
圭吾が油性ペンを差し出す。夕映は〈名称未定〉と書こうとして、手を止めた。
「空欄でいい。誰のものでもないみたいで」
朔也は赤いテープをケースに入れ、スタジオの忘れ物棚へ置いた。
三人はそれぞれ違う出口へ向かうように駅前で別れた。翌週、忘れ物棚のテープはなくなっていた。
誰が持ち帰ったのか、三人のチャットには最後まで書き込まれなかった。