名前のない勇者

午前一時、海外版の最終確認で、主人公の名前だけが消えた。

 画面にはこう出ている。

〈  は古い剣を手に入れた〉

 ほかの文章では名前が表示される。明朝までに十二言語分を完成させなければ、同時発売が崩れる。ローカライズ担当の設楽ヶ原弓弦は、問題の一文を翻訳表から探した。

 文章には、主人公名を差し込むプレースホルダーが入る。日本語版では「{NAME}」、海外版では翻訳者が読みやすいよう「主人公名」と注釈されていた。問題の言語だけ、その注釈まで訳され、差し込みの記号が消えている。

「記号を戻して全言語へ配れば終わりですね」

 隣の担当が言った。弓弦は配信を止めた。翻訳表の一行を直すと、同じ文字列IDを使う入手画面すべてに反映される。主人公だけでなく、仲間や敵の名前を入れる場面も同じ一文を使っていた。

 彼は問題の画面から逆にたどり、同じIDが呼ばれる場所を一覧にした。十八か所。そのうち三か所では、名前ではなくアイテム名が入る。単純に「{NAME}」へ戻すと、剣が剣を拾ったことになる。

 原因は二日前の整理だった。似た文章を一つにまとめ、翻訳量を減らしていた。日本語なら主語を省けるため気づかなかったが、主語が必要な言語では用途を共用できない。

「一行を直すんじゃなく、三種類に分けます」

 弓弦は人物、敵、アイテム用にIDを分け、既存の翻訳を複製した。新しい翻訳を頼めば朝に間に合わない。語順が変わる言語だけ、当直の翻訳者に確認を求めた。

 午前三時半、十二言語で勇者が剣を拾い、盗賊が鍵を奪い、宝箱から薬が出た。誰の名前も消えず、剣が歩き出すこともない。

 海外担当が「修正完了」と送ろうとしたとき、弓弦は翻訳表を読み取り専用にした。締切直前に善意の整理をされないためだ。

 午前五時、配信用データが送られた。弓弦の画面には、次の追加章の翻訳依頼が届いていた。

 新しい主人公は、名前を持たない設定だった。

 彼は空欄と不具合を見分けるための注釈を、一行目に書き始めた。