四分休符の斬撃
「休符では、きちんと休んでください」
音楽教師ユーリオ・カデンは、合唱が乱れるたび指揮棒で譜面台を叩いた。声は小さく、服はいつも灰色。放課後には椅子を積み、弦を張り替え、誰も借りない古いリュートの埃を払う。生徒たちは、彼が昔どこかの楽団にいた程度だと思っていた。
声変わりを気にして一人練習していた少年ラウは、その日、ピアノの下に隠れていた。
音楽室の鏡が震え、黒衣の女が抜け出してくる。喉のない歌姫、哀哭のバンシー。彼女の声を聞いた城は住民ごと砕けると伝わる魔物だ。
女が口を開いた。まだ音になる前から窓ガラスに亀裂が走る。
ユーリオは譜面を一枚めくり、四分休符の上で指揮棒を止めた。
世界から音が消えた。
次の瞬間、バンシーの身体には五本の譜線が通り、その上で黒い姿が音符のようにばらばらになった。ユーリオが棒を下ろすと、残骸は無音のまま譜面へ吸い込まれ、休符一つに収まる。魔王の咆哮を一小節の静寂で斬った元勇者。その名演を聞いた者は、今回も一人もいない。
ただ、ラウは音のない光景を見ていた。
ラウは、城を砕く絶叫にも声を重ねず、静けさそのものを置いた教師を見つめた。合唱で声が出ない自分を、ユーリオが一度も急かさなかった理由が分かった気がする。休むことは負けではない。次の音を自分で選ぶための場所なのだ。少年の恐怖は消えていなかったが、呼吸だけはゆっくり戻ってきた。
ユーリオは割れかけた窓へ指を滑らせ、亀裂を消す。鏡を布で磨き、乱れた椅子を並べ直し、休符の載った譜面だけを暖炉で燃やした。それからピアノの下へ視線を落とす。
「そこは客席ではありませんよ」
ラウは這い出し、震えながら尋ねた。
「先生、怖くなかったんですか」
「怖いときほど、息を吸う場所が必要です」
教師は少年の譜面に休符を書き足した。明日は無理に高音を出さなくていい、と小さく記す。
そして指揮棒を持ち直し、いつもの調子で言った。
「休符では、きちんと休んでください」