固定メッセージを外す
菜緒と母のチャットには、三年前から同じ文が固定されていた。
《帰宅したら必ず連絡。外泊時は住所と同行者を知らせること》
一人暮らしを始めた夜、母が送ってきた。二十五歳になっても、画面を開くたび一番上に出る。旅先のホテルでも、残業帰りの電車でも、その一文は校則のように菜緒を待っていた。
出張先の部屋でコンビニのおにぎりを開けたとき、母から〈まだホテル着かないの?〉と来た。菜緒は到着を知らせていなかった。
〈着いてるよ〉
すぐに〈なぜ連絡しないの〉。続けて、固定メッセージを指す矢印のスタンプが届いた。
菜緒はおにぎりを置き、画面上部の文を長押しした。「固定を解除しますか」と表示される。親指が震えたのは、ただの設定変更なのに、家の玄関から校則表を剥がすように感じたからだった。
解除を押す。
チャットには〈固定メッセージを解除しました〉と小さく表示された。
母から即座に〈どういうこと?〉と来た。
〈無事の報告は、必要なときに私からする〉
〈毎日の帰宅連絡と、外泊先の住所の共有はやめるね〉
〈何かあったらどうするの〉
菜緒は会社へ提出している緊急連絡先と、友人の名前を書いた。母を外すのではない。ただ、母だけが菜緒の安全を管理する形をやめたかった。
〈緊急時はこの二つを使う。普段は日曜に話そう〉
しばらくして母から、〈日曜の何時〉と返った。
〈夜七時。出られない週は先に言う〉
〈分かった〉
母は固定し直さなかった。
固定された文の下には、〈駅に着いた〉〈今から帰る〉〈同僚と食事〉という菜緒の報告が何年分も積もっていた。母の返事はたいてい〈了解〉だけで、会話というより点呼だった。今日もホテル名と部屋番号を尋ねられていたが、菜緒は会社の行程表だけを見直した。出張の責任者は母ではない。安全を守る手段と、母を安心させる儀式を、初めて別々に考えた。
菜緒は冷めかけたおにぎりを食べた。画面の一番上には、もう命令文ではなく、今日交わした会話がある。帰宅したことを知らせなくても、帰る場所まで失うわけではない。その事実を、海苔の湿った音と一緒にゆっくり噛んだ。