墨の乾く向こう

小さな店舗の賃貸契約書を前に、杠葉文乃は鞄から印鑑を出した。印鑑の下に敷いたハンカチから、乾いた墨の匂いがした。包んであったのは、高校の書道部で使っていた黒いフェルトだった。窓の外には商店街のアーケードがあり、シャッターの閉まった元花屋の上に、看板を外した跡が白く残っている。ここへ自分の文字を掲げることが、急に大げさなことに思えた。

最後の部活動の日、文乃に与えられた仕事は、作品を書くことではなかった。改修後の部室に掛ける「書道室」の札を、新しい板へ書き直すことだった。

三年生はもう制服の胸花を外していた。袖口には黒板を消したときのチョークの粉がつき、硯の水はいつもより冷たかった。皆が寄せ書きや写真に夢中になる中、文乃だけが床へ正座し、四文字の位置を測った。卒業制作なら、自分の好きな言葉を選べたのに。これから使うのは後輩たちで、自分は完成した札を見ることもない。

筆に墨を含ませる。「書」はうまくいった。「道」のしんにょうで、廊下から笑い声が聞こえた。手元が揺れ、最後の払いが予定より長く伸びた。

文乃は息を止めた。書き直す板はない。

顧問は札を持ち上げ、窓際へ置いた。曲がった払いが光を吸い、黒く濡れていた。

「乾くまで、触らないこと」

直すべきかと尋ねても、それだけだった。

皆が帰ったあと、文乃は一人で墨の表面が鈍くなるのを待った。窓の外では運動部の掛け声が遠ざかり、校舎の時計が六時を打った。乾いた札を抱えると、伸びすぎた一画は、部室の扉の方へ歩き出しているようにも見えた。

文乃は卒業後、筆を仕事にしなかった。文字は注文どおり、見本どおりに書けなければ価値がないと思ったからだ。それでも会社帰りに小さな看板を書き続け、今、週末だけの筆文字店を借りようとしている。

契約書の署名欄へ、自分の名前を書く。最後の「乃」の払いが少し長くなった。高校の頃とは違う癖で、同じように枠から出た。

文乃は書き直さず、印を押した。

墨の乾いた向こう側に、自分で開ける扉があった。