声の代わりの白い線

卒業生代表の答辞を読み終えたあと、教室へ戻ると、黒板の中央だけが不自然に空いていた。

神津啓太のためだと、久留米沙都にはすぐわかった。

式のあいだ降っていた雨が上がり、開けた窓から濡れた土の匂いが入っていた。机は後ろへ寄せられ、床には花飾りの安全ピンや、丸めた式次第が落ちている。

啓太は、朝のホームルームで一人ずつ言葉を書くことになってから、ずっと白いチョークを握っていた。けれどみんなが「また会おう」「元気で」と書くたび、手を上げては下ろした。

「何を書くか決まらない?」

沙都が聞くと、啓太は首を振った。

人前で話すと最初の音が出にくい。けれど筆談なら、啓太の言葉はいつも誰より早かった。テスト前には要点を三行でまとめ、文化祭の看板には一晩で百人分の名前を入れた。沙都が放送委員の原稿を読み違えた日には、誰にも見えない机の下で正しいページ番号を指で示してくれた。

教室の時計が十二時を回り、写真を撮り終えた生徒から帰り始めた。黒板の中央は空いたままだった。

担任が廊下から「戸締まりするぞ」と声をかける。

啓太はようやく黒板の前へ立ち、チョークを置いた。書かずに帰るつもりらしい。

沙都はそのチョークを拾い、空白の左端へ一本だけ縦線を引いた。

「続き、お願い」

啓太は眉を寄せた。沙都はもう一本、横線を足した。何の字にもならない線だ。

「最初から言葉にしなくていいよ。一本ずつなら」

啓太は少し笑い、沙都の線につなげて大きな四角を描いた。そこから屋根、窓、机、二十四人の棒人間が増えていく。最後に、校門から外へ伸びる道を描いた。

絵の下へ、啓太は小さく書いた。

〈ここで話せなかったことも、なくなったわけじゃない〉

教室に残っていた全員が静かになった。誰かが拍手を始める前に、沙都はその隣へ書き足した。

〈聞けなかったことも、忘れない〉

啓太は返事の代わりに、二本の道を黒板の端で重ねた。

戸締まりを急かす担任は、結局その絵が完成するまで何も言わなかった。

校門へ向かう廊下で、沙都は啓太に「さっきの絵、写真にした?」と尋ねた。啓太はスマートフォンの画面を見せた。黒板全体ではなく、重なった二本の道だけを撮ってある。

沙都がその写真を送ってもらうと、メッセージ欄に文字が一つずつ現れた。

〈つ・ぎ・は・声・で〉

沙都は歩調を緩めず、隣で待った。啓太は校門を越える直前、時間をかけて彼女の名前を呼んだ。