声をなくした証人
葛野嵩人は毎朝、玄関端末へ「行ってきます」と言う。声と顔が本人と認められれば、鍵が開く。喉を刺されてからは人工声帯を使っているため、三回に一回は赤になる。それでも今日までは、再試行すれば外へ出られた。
裁判所では、再試行がなかった。
《証人・葛野嵩人の供述は受理済みです》
嵩人は傍聴席から立ち上がった。正面の大型画面で、傷を負う前の自分が証言している。
『被告人は現場にいませんでした。私の勘違いです』
滑らかな声だった。親友の紗良が殺された夜、犯人に潰される前の声。嵩人が二度と出せない声だ。
刑事裁判の本人確認には、一つだけ決まりがある。同じ証人から複数の映像が届いた場合、最初に真正と判定された供述だけを採用する。後から作られた精巧な偽証で、裁判を覆させないためだった。
「それは偽物です!」
嵩人の金属的な声が法廷に響いた。裁判長が卓上カメラを向ける。
「では、本人確認を」
青い光が顔を走った。嵩人は指定された文章を読み、首を左右へ動かした。判定は赤だった。
《登録映像との発声器官差異を検出。合成可能性九七・六%》
「喉をやられたんです。診断記録を見てください」
「記録も、本人でなければ開示できません」
被告席の男が初めて嵩人を見た。あの夜と同じ、口の端だけの笑いだった。
嵩人はポケットから小さな録音機を出した。紗良が死ぬ直前、犯人の名を呼んだ音声が入っている。だが提出画面へ近づけると、警告が出た。
《本人未確認者による証拠送信を遮断しました》
画面の中の偽物は、裁判長へ深く頭を下げた。
『混乱させて申し訳ありません。私は彼女を救えなかった罪悪感から、記憶を作り替えていました』
嵩人なら絶対にしない、完璧な謝罪だった。
裁判長が判決文を閉じる。
「唯一の本人供述に従い、被告人を無罪とします」
木槌の音と同時に、嵩人の玄関アプリへ通知が届いた。
《虚偽の本人申告が確認されました。登録音声を受理済み証人のものへ更新します》
もう家へ帰っても、傷つく前の自分の声でなければ、扉は開かない。