夕日が黒板を消す前に

柏木那智が転校することを、水城柚葉は終礼で初めて知った。

先生が「急な話だけど」と言い、那智が前に立って「向こうでも元気にします」と笑った。クラスはざわめき、連絡先を交換し、部活の仲間は泣いた。柚葉は何も言えないまま帰った。

三十分後、机に置き忘れた文庫本を取りに戻ると、那智だけが教室にいた。

黒板には、さっき皆が書いた「元気で」「忘れるな」が残っている。那智は自分の机に、駅から新しい家までの路線図を描いていた。

「落書き」

「最後だから見逃して」

「最後って言えば何でも許されると思ってる」

「じゃあ消す」

柚葉は止めなかった。那智は路線図の終点を親指でこすったが、鉛筆の跡は薄く残った。

「いつ行くの」

「明後日」

「早」

「うん」

普段なら話題はいくらでもあった。購買の新作パン、担任の口癖、次の席替え。今日は全部、言った瞬間に最後の会話になりそうで選べない。

那智が窓を開けた。夕日と野球部の声が入ってくる。

「水城、今日の英語の宿題どこ?」

「二十六ページ」

「多いな」

「転校したらやらなくていいんじゃない」

「そういう制度ある?」

「ない」

二人は笑った。笑えることが少し腹立たしかった。

柚葉は路線図の途中に、自分の最寄り駅を書き足した。実際には一本もつながっていない場所だった。

「そこ通らない」

「知ってる」

「地図として失格」

「思い出としては合格」

那智は何も言わず、その駅と終点を一本の線で結んだ。

下校時刻になり、柚葉は黒板消しを手にした。皆の言葉を消す係は残酷だと思った。那智も反対側から消し始める。白い粉が夕日に舞い、最後に「また明日」だけが残った。誰が書いたのか分からない。

「明日は来る?」

「荷造りで休む」

「じゃあ嘘じゃん」

「黒板なんてだいたい嘘を書く場所だろ。未来の予定とか」

柚葉は「また明日」を消さなかった。

翌朝、それは朝日に照らされていた。那智の席は空だったが、机の路線図には、存在しない駅が一つ増えたままだった。