夕鐘の下の黒猫
九条原志麻は、寺の隣で小さな和菓子店を営んでいる。
夕方になると、寺の黒猫・墨丸が店先へ来て、蒸した饅頭の湯気を眺める。甘い餡を与えることはないが、志麻が「今日も見るだけね」と言うと、墨丸は分かったように目を細めた。
ある秋の日、夕鐘が鳴っても墨丸は来なかった。
住職は境内を捜し、志麻は裏路地を回った。猫は朝、植木屋の車に驚いて塀を越えたらしい。
寺の参拝客、茶道教室の生徒、近所の古書店主まで加わり、黒い猫を探した。
「暗くなると見えにくい」
誰かが言い、和菓子店の包装紙を細く切って、見た場所へ結ぶことになった。赤い紙が、石段、墓地の脇、竹垣の角へ増えていく。
志麻は墨丸が音に敏感なのを思い出した。
寺の鐘が鳴る前には必ず本堂の縁の下へ入り、余韻が消えるころ出てくる。けれど今日は鐘のあとも姿がない。
住職が「もう一度、短く撞いてみよう」と言った。
捜索のために鐘を鳴らすのは妙だったが、皆が境内で耳を澄ませた。
ごうん、と低い音が秋の町へ広がる。
余韻の向こう、墓地の石塀から、かすかな鳴き声が返った。
塀の外側には、使われていない井戸屋形がある。墨丸は屋根へ登ったものの、下りられずに縮こまっていた。
植木屋が脚立を貸し、住職がゆっくり抱き下ろす。墨丸は腕の中でしばらく固まり、志麻の姿を見ると、ようやく喉を鳴らした。
捜索の人々は、和菓子店の土間へ集まった。
志麻は形の崩れた栗饅頭を蒸し直し、住職が番茶を淹れる。包装紙の赤い切れ端を外しながら、古書店主が「町じゅうに小さな祭りの跡ができたね」と笑った。
栗餡は熱く、皮からほのかに酒の香りがした。
墨丸は店の隅の座布団で丸くなり、いつものように湯気だけを嗅いでいる。
翌日、寺と商店の人々は、塀の穴や古い物置を一緒に点検した。今まで誰の仕事か曖昧だった場所を、皆で直すことになった。
夕刻、鐘がいつもの一度を鳴らす。
墨丸は本堂の縁の下へ隠れ、音が薄れると和菓子店へ歩いてきた。
「おかえり」
志麻が言うと、黒い尾が一度だけ上がった。
店には蒸した栗と番茶の香りが満ち、鐘の余韻は昨日より柔らかく、町の屋根へ残っていた。