大丈夫じゃない退職日
最終出社日の午後九時、佳澄の机には段ボールが一つ残っていた。
広告会社のフロアは半分消灯し、警備員が十分後に施錠すると告げて回っている。碧生は自分の鞄も持たず、段ボールの前に立った。
「持つよ」
「大丈夫」
「駅まで」
「大丈夫だから」
二年間、佳澄が終電を逃すたび、碧生はタクシー乗り場まで送った。泣きそうな日はコンビニの袋を机に置き、何も聞かなかった。
好きだと言えない理由は、それだった。口にすれば、彼はこの会社に残る。あるいは一緒に辞めると言うかもしれない。自分が逃げるために、彼の人生まで引っ張りたくなかった。
佳澄が退職届を出した翌日、碧生は何も聞かずに会議の議事録を引き取った。上司が「根性がない」と笑ったときだけ、珍しく机を強く閉めた。その音で、佳澄は危うく決意を翻しそうになった。誰かが味方なら、もう半年だけ耐えられる。そう思うことこそ、この職場に縛られる仕組みだった。机の引き出しには未使用の鎮痛薬と、終電後のタクシー領収書が束になって残っている。
「次の会社、決まってる?」
「まだ」
「じゃあ、少し休めるね」
「大丈夫」
三度目の言葉に、碧生が眉を寄せた。
「それ、便利だけど信用できない」
「便利だから使ってるの」
「俺には使わないで」
警備員が遠くから、あと五分と声をかけた。
佳澄は私物のマグカップを段ボールに入れようとして、手を滑らせた。碧生が受け止める。ふちに小さな欠けがあった。残業中、彼が何度もそこを避けてコーヒーを注いでくれたことを思い出す。
「好きだって言ったら、残る?」
佳澄はマグカップを見たまま尋ねた。
「言われなくても、残る予定」
「じゃあ言えない」
「どうして」
「私のために辞める人も、残る人も作りたくないから」
消灯予告のベルが鳴った。
「大丈夫じゃない」
佳澄はやっと言い直した。
「でも、辞めるのはやめない」
退職届の控えを半分に折り、裏へ個人番号を書く。段ボールを持ち上げた碧生の胸ポケットへ差し込んだ。
佳澄は空いた両手で、自分の鞄だけを持って先に歩き出した。