姉の店は閉まらない
波多野維吹は毎朝、台所の端末でクロワッサンを一つ注文する。画面の中で死んだ姉・月乃が、生地を折る手つきを見せながら笑った。
『今日は少し焦がし気味。維吹、そういうの好きでしょ』
届くのは提携工場のパンだ。それでも月乃のレシピと声で売られる店は人気があり、死後二年で生前より客が増えた。
死者人格が営業を続ける限り、登録された事業資産は本人のものとして凍結される。家族が勝手に畳めば、死者の意思を奪うことになるからだ。
その店の本店住所は、維吹と父が住む古い家だった。
父の連帯保証が原因で、家に差押え予告が来た。三日以内に四百万円を払わなければ競売になる。月乃の店には十分な売上があった。
維吹は事業口座からの救済支出を申請した。
《用途を説明してください》
「店がある家を守るため」
月乃は少し考え、首を横に振った。
『店舗は仮想空間へ移転済み。建物の保全は事業目的ではありません』
「この台所で姉ちゃんはパンを焼き始めたんだ」
『思い出は経費にならないよ』
生前の月乃は数字に弱かった。だが人格は、死後に蓄積した購買データで合理的になっていた。父が壁に貼った最初のメニューも、焦げ跡のある天板も、売上に寄与しないと判定した。
維吹は店の停止を申請した。停止できれば資産は相続へ回る。
画面の月乃が問う。
『私の夢を終わらせるの?』
返事ができないうちに、常連客から新しい注文が入った。営業中の表示が緑になる。
《事業継続意思を確認しました》
《資産凍結を更新します》
三日後、執行官が玄関に封印を貼った。店の注文数はその朝、過去最高を更新していた。
父は黙って、月乃が使っていた麺棒だけを鞄へ入れた。維吹が端末を外そうとすると、所有権警告が鳴る。画面の姉は今日のおすすめを宣伝していた。
『帰る場所みたいな味を、全国へ』
家を追い出された維吹の端末に、定期購入のパンが届く。配送先不明で返送されると、月乃から自動メッセージが来た。
『住所、ちゃんと更新してね』
店は閉まらなかった。閉まったのは、家族が帰る玄関だけだった。