子守歌の知らない母

広場に一夜だけ立つ市場で、ヴェスナは眠りを売る店を探した。金の枕、夢を見ない毛布、朝まで一度も裏返らない寝台。どれも高価だった。

一番奥に、歌だけを売る老婆がいた。

「この子守歌なら、一人分の悲しみを抱いて眠らせられるよ。ただし歌い手は、最初にその歌を教えてくれた人を忘れる」

ヴェスナは楽譜を見た。音符は読めないのに、旋律が胸の中で勝手に続いた。

母の歌だった。

下宿の二階で待っている少女は、七日眠っていない。火事で家族を失ってから、目を閉じるたび燃える窓を見る。ヴェスナは濡れ布を額に置き、手を握り、夜通し話をした。けれど少女は「眠ったら、みんながいなくなった朝になる」と震えた。昨夜はヴェスナの手首へ紐を結び、目を閉じている間に逃げないよう、もう一方を自分の指へ巻いた。

ヴェスナにも、朝を怖がった夜があった。母の寝台が静かになった翌日だ。そのとき自分を眠らせたのが、この歌だった。

この歌なら、悲しみを消さずに、朝まで抱いてくれるという。

「忘れるのは、顔だけですか」

「その人にまつわる全部さ。名も、声も、あなたが愛されたことも」

ヴェスナは楽譜を戻しかけた。

母は十四年前に死んだ。形見は木の櫛一本で、写真も肖像もない。忘れれば、母は本当にどこにもいなくなる。自分の優しさが誰から渡されたものかも分からなくなる。

けれど下宿には、家族を失ったばかりの少女がいる。朝を怖がる小さな手が、今も彼女の袖を探しているはずだった。

老婆は急かさなかった。市場の灯が一つずつ消えていく。

ヴェスナは最後に、母をできるだけ細かく思い出した。櫛を引く指。冬の荒れた手。笑うと片方だけ深くなる頬の窪み。歌の途中で必ず一音外す癖。

「この一音も、なくなりますか」

「それがその人のものならね」

ヴェスナは楽譜を買った。

紙に触れた途端、胸の中の女の顔が霧に沈んだ。名を呼ぼうとしても、最初の音すら出てこない。手には、誰のものか分からない古い櫛だけが残った。

それでも旋律は残っていた。

ヴェスナは市場を駆け出した。忘れた誰かと同じように、一音だけ外しながら。