屋根から来た舟
救助舟が屋根へ寄ったとき、私は両手を合わせた。
川が堤防を越え、住宅街は二階の窓まで茶色い水に沈んでいた。私は一晩、物干し台にしがみついていた。オレンジ色の合羽を着た二人がゴム舟から腕を伸ばす。
「一人ですね。慌てず乗って」
胸に市の腕章が見えた。濡れた眼鏡でよく見えなかったが、それだけで安心した。
舟には救援物資が一つもなかった。代わりに黒い工具箱が三つ並び、救命胴衣の団体名は刃物で削られている。
舟の底には、泥水より濃い機械油の匂いが残っていた。工具箱の隙間から、工場で使う大型のボルトカッターと、私の家の間取り図が覗いている。雨で文字が滲んでいたため、私は見間違いだと思った。
「避難所は小学校ですか」
私が尋ねると、操縦する男は答えず、もう一人が私の腰へベルトを回した。
「転落防止です」
ベルトは舟の縁ではなく、足元の金具につながっていた。外そうとすると、増水して危険だからと言われた。
無線から救助本部の呼びかけが流れた。男は応答せず、周波数を変える。新しい周波数で聞こえたのは「対象宅浸水」「書類未確認」という短い会話だった。
舟は小学校と反対へ進んだ。途中、屋根の上から何人も助けを求めていたが、二人は手を振るだけで通り過ぎる。
「定員がある」
舟には私を含めても三人しかいない。
やがて男が言った。
「二階の押し入れに入れていた帳簿、持ってきましたか」
息が止まった。私は町工場の経理をしている。社長の裏金を記した帳簿を、昨夜こっそり自宅へ運んだ。住所も保管場所も、会社の人間しか知らない。
「どうして、それを」
男はオレンジの袖をまくった。見覚えのある工場の作業着が下から出た。
私は川沿いの倉庫へ近づく舟を見た。搬入口だけが水面より高く、扉の前には社長の車が止まっている。二人が舟を中へ押し込むと、背後で鉄扉が下りた。
外では本物の防災ヘリが町名を呼び、救助を待つよう放送していた。
腰のベルトが短く巻き取られる。
「洪水なら、行方不明でも不自然じゃない」
屋根から来た舟は、私を水害から連れ出した。
避難所へではなく、誰にも捜せない倉庫の奥へ。