屋根の下でも
「屋根に入ったら、手を離して」
小榑由良は、笹森柊悟へ毎回そう頼んだ。
二人は同じマンションの住人で、最寄り駅も帰宅時刻もほぼ同じだった。雨の日は柊悟の大きな傘に入り、滑りやすい坂だけ手をつなぐ。けれどエントランスの庇が見えると、由良は必ず指をほどいた。
管理人も、同じ階の夫婦も、二人を見れば楽しそうに笑う。
「仲がいいわね」
「偶然、帰りが一緒なだけです」
由良は先回りして否定した。小さな建物では噂が早い。もし柊悟の親切を恋だと勘違いして、気まずくなれば、住む場所まで落ち着かなくなる。それだけが怖かった。だから晴れた朝に廊下で会っても、由良は短い挨拶だけで通り過ぎた。
六月のある夜、雨は横殴りだった。一本の傘では足りず、由良の左腕も、柊悟の右肩も濡れた。坂道で足を滑らせた由良を、柊悟が強く引き寄せる。
「大丈夫?」
「うん。庇まで、このままで」
手をつないだままエントランスへ着く。屋根に入った瞬間、由良はいつものように力を緩めた。
けれど柊悟は離さなかった。
そこへ管理人が郵便受けから顔を出す。
「あら、今夜も一緒。お友達?」
由良の心臓が跳ねた。いつもなら笑ってうなずくところだった。
柊悟は何も言わず、空いた手でスマホを開いた。画面には、翌週日曜の映画館の予約が二席。その次の日曜には、水辺のレストラン。どちらの予定にも《由良》と入っていた。
由良はその画面を見てから、つながれた手を握り直した。
「笹森さんではなく、柊悟さんです」
管理人が目を丸くする。
「それで、来週も会う人です」
恋人という言葉までは使わなかった。それでも柊悟の指が、十分な返事のように絡んできた。
エレベーターの中でも、同じ階の廊下でも、二人の手は離れなかった。由良は自室の前で予定への招待を承諾し、連絡先の表示を《隣の笹森さん》から《柊悟》へ変える。
「屋根の下だけど、いいの?」
彼が尋ねる。
由良は鍵を出さず、もう一度その手を引いた。
「屋根の下でも、いい」
雨の坂だけの支えだった手は、その夜から、隠す必要のない次の約束になった。