山羊が見ていた蜂蜜トースト

 牧場カフェ「草の窓」では、テラスの柵越しに山羊が顔を出す。

 白い山羊のハクは、客が来るたび食べ物をねだるが、店主の牧乃が「これは人の分」と言うと、いかにも不服そうに唇を曲げた。

 その日、瀬戸口征平は開店から閉店前まで、同じ席にいた。

 注文したコーヒーはとっくに冷め、鞄の中には会社から渡された封筒がある。部署の廃止。退職の説明。二十二年勤めた場所から持ち帰ったものは、紙三枚と、机の引き出しに入れていた胃薬だけだった。

「何か食べませんか」

 牧乃が声をかけると、征平は首を振った。

「今日は、何もしてないから」

「食事は報酬じゃありませんよ」

「でも、腹が減る資格がない気がして」

 牧乃は困った顔をせず、厚切りのパンを焼き始めた。

 焦げ目のついたパンへ、山羊のチーズを薄く塗る。上から蜂蜜を垂らすと、黄金色の筋がゆっくり角へ流れた。最後に黒胡椒をひと振り。

「頼んでない」

「ハクが頼みました」

 柵の向こうで、ハクがメエ、と鳴いた。

 征平がパンをちぎると、表面はさくりと割れ、中から白い湯気が出た。チーズには青い草のような香りがあり、蜂蜜の甘さがその癖をやわらげる。黒胡椒だけが、遅れて舌を起こした。

「この山羊、毎日何してるんです」

「草を食べて、寝て、柵を壊そうとして、叱られてます」

「役に立ってる?」

「ミルクをくれます。あと、お客さんを笑わせます」

「今日は笑ってない」

「さっき、少し口が動きました」

 征平は否定しようとして、ハクと目が合った。ハクは空になった皿を見つめ、もう一度鳴いた。

「会社を離れたら、自分までなくなったみたいで」

「名前は残ってますよ」

「名前だけじゃ、食えない」

「だから今、パンを食べてるでしょう」

 牧乃の言い方があまりに平らで、征平はとうとう笑った。

 帰る前、牧乃は小瓶の蜂蜜を売ってくれた。

「明日の朝に」

「明日、起きる理由になりますかね」

「パンを買い忘れない、くらいの理由で十分です」

 駐車場へ向かう征平の後ろを、ハクが柵沿いに歩いた。最後まで見送るつもりなのか、餌を期待しているだけなのかは分からない。

 車に乗っても、指先には蜂蜜の匂いが残っていた。征平は封筒を助手席へ置き、明日のパン屋を考えながらエンジンをかけた。