島の本棚に風を通す

 染谷紗季は、東京の雑誌編集部で「締切」という言葉に囲まれていた。

 原稿、写真、校了、次号。ひとつ終わる前に次が始まり、読みたくて選んだ本を、何年も開けずに積んでいた。

 退職後に移った瀬戸内の小島で、紗季は港近くの古民家を借りた。

 六畳間を書斎にするつもりだったが、前の住人が残した本棚は湿気で背板が外れ、窓枠も塩で白くなっている。

 紗季は棚を修理し、本を並べ、「島の小さな図書室」として月に一度開こうと決めた。

 開室日は手帳へ大きく丸をつけた。

 ところが注文した木材は船の欠航で届かず、壁の漆喰も乾かなかった。予定の一週間前になっても、棚は半分しか立っていない。

「延期のお知らせを書かなくちゃ」

 港の売店で言うと、店主がみかん箱を二つ差し出した。

「本はこれに入るでしょう」

「見栄えが」

「読む人は背板を読まんよ」

 開室当日、みかん箱を横に重ね、布を掛けた。

 最初に来たのは近所の小学生三人だった。漫画を一冊ずつ持ち込み、「ここにも置いて」と言う。漁師の老人は古い航海記を、パン屋の夫婦は料理本を持ってきた。

 紗季が用意した棚より、持ち寄られた本の方が先に部屋を満たした。

 午後、海風が窓から入り、頁をぱらぱらめくった。

 誰も静かには読まない。子どもは面白い場面を声に出し、老人は航路の話を始め、パン屋は本の写真より自分のパンの方がおいしいと言った。

 編集部なら整理したくなる賑やかさだった。

 けれど紗季は注意せず、冷やした麦茶を配った。

 木材が届いたのは、その翌週だった。

 紗季は新しい棚を作ったが、みかん箱も一つ残した。誰かが突然持ってくる本のための、予定外の場所として。

 夕方、皆が帰ると、畳には日差しの四角が残った。

 紗季は窓を閉める前に、潮と紙の匂いをゆっくり吸い込んだ。棚の端には、子どもが置いていった栞が挟まっている。

〈つづきは、こんど〉

 締切ではなく、次に開く約束だった。

 台所では島の檸檬を浮かべた湯が冷めかけ、古い家の本棚を、夜の風が最後に一度だけ通り抜けた。