川向こうの恋人

追手に見つけられたくない者の名を紙舟に書き、夜の川へ流せば、その者は永遠に捜索から隠される。ただし、名を書いた人だけは、二度とその者に思い出してもらえない。

アルネラは渡し場の葦に身を伏せ、紙を膝へ広げた。

対岸では、フィグが馬を替えている。濡れた外套の下に、反逆者の印を焼かれた肩が見えた。橋には兵が集まり、犬の鳴き声が近づいてくる。

「川へ出ろ」と渡し守が囁いた。「名前を書けば追手の目から消える。地図にも記録にも残らない」

「そのあと、私は?」

「彼にとって、初対面の女になる」

アルネラは笑った。初対面なら、また好きになってもらえばいい。そう言いかけて、やめた。

フィグが彼女を好きになったのは、一度きりの奇跡の積み重ねだった。雨宿りで貸した袖。互いに嫌いな香草が同じだったこと。眠れない夜に、彼が十二年前の失敗を話し、彼女が笑わなかったこと。

同じことを繰り返せば同じ恋になるほど、人の心は素直ではない。

紙舟に、フィグの名を書く。

対岸から彼が叫んだ。

「アルネラ、早く来い!」

兵たちも声に気づいた。松明が一斉にこちらを向く。

アルネラは川へ一歩入った。冷たい水が靴を満たす。紙舟を浮かべれば、追手はフィグを見失う。彼は生きる。そして彼の中から、彼女に関する記憶だけが、丁寧に抜き取られる。

去年の冬、彼は言った。たとえ名を忘れても、君の手の温度なら分かる、と。

そんな約束を信じたい自分と、試したくない自分が、胸の中で同時に泣いた。

犬が葦をかき分けた。

アルネラは紙舟を放した。

舟が流れへ乗った瞬間、対岸の兵たちは首をかしげた。目の前にいるフィグを見ても、誰を追ってきたのか分からない顔をして散っていく。

フィグ自身も、こちらを見た。

アルネラは水を渡った。差し出された手に触れる。彼の指は、覚えていた通り温かい。

けれどフィグは礼儀正しく手を離した。

「助かりました。旅の方」

アルネラの濡れた睫毛を見て、不思議そうに眉を寄せる。

「どこかで、会いましたか?」

紙舟が闇へ沈んだ。

アルネラは彼の名ならまだ呼べた。呼べば振り向く。もう自分を待つ振り向き方ではなくても。

唇を開く直前、彼女はその名を胸の中だけで抱いた。