帰る駅を選ぶ玩具列車
父が家を出る夜、息子は床いっぱいに玩具の線路を広げた。
赤い機関車は、父が幼い頃に遊んだ物だった。
塗装は剥げ、電池を入れても動かない。それでも息子は、父と母が話している間、何度も手で押した。
「どっちと暮らしたい?」
誰もその言葉を口にしなかった。
けれど部屋の空気は、ずっと同じ質問をしていた。
父が鞄を持って玄関へ向かうと、赤い機関車が突然動き出した。
電池は入っていない。
線路を走り、父の足元で止まった。
息子は息をのんだ。
母は顔を伏せた。
父が機関車を線路へ戻すと、今度は母の方へ走った。
赤い機関車は、家から出ようとする人のところへ行くらしい。
父が「今日はホテルに泊まるだけ」と言うと、機関車はまた父へ向かった。
母が「私が出た方がいい」と呟くと、今度は母へ。
息子は面白くなり、上着を着た。
機関車は勢いよく息子へ走ってきた。
三人とも笑った。
笑ったあと、父が泣いた。
その夜、誰も家を出なかった。
仲直りしたわけではない。
父と母は台所で長く話し、息子は機関車を抱いて眠った。
一週間後、父は別の部屋へ引っ越した。
機関車は玄関まで追いかけたが、父はしゃがみ込み、
「帰る駅はここだけじゃない」
と息子に言った。
父の部屋にも線路を一周分置いた。
週末、息子が泊まりに行くと、機関車は母の家を出る息子を追い、父の部屋から帰る日にも息子を追った。
どちらへ行っても、別れようとする人の足元で止まる。
息子は機関車がかわいそうになった。
毎回、誰かを引き止めようとするからだ。
そこで二つの家に駅を作った。
母の家は「ただいま駅」、父の部屋は「おかえり駅」。
出発ではなく、到着する方へ機関車を置くことにした。
不思議なことに、機関車はもう勝手に走らなくなった。
電池を入れると、普通に線路を一周した。
父と母は元の夫婦には戻らなかった。
けれど学校行事には二人で来た。
機関車を持ってくる必要もなかった。
何年か後、息子は家を出て寮へ入った。
荷物の中に赤い機関車を入れた。
新しい部屋の机へ小さな駅名標を置く。
「いってきます駅」
遠くへ行くことは、誰かを捨てることではない。
機関車はもう知っているように、赤い車体を静かに光らせていた。