彼の推しは私でした
久世千紘の恋人は、ゲーム配信者〈ねむり姫〉のファンだった。
それを知ったのは、付き合って三か月目の雨の日だ。喫茶店で待ち合わせた航平の鞄から、紫色の枕を抱くキャラクターのキーホルダーが覗いていた。
千紘が夜ごと声を変えて演じている、配信用の分身だった。
「それ、好きなの?」
平静を装って尋ねると、航平は嬉しそうにキーホルダーを持ち上げた。
「知ってる? 操作はすごく上手いのに、宝箱の前で毎回寝落ちする人」
「寝落ちは演出かもしれないよ」
「だったら天才。仕事でしんどい日に見ると、完璧じゃなくていいって思える」
胸が温かくなるより先に、怖くなった。彼が好きなのは、千紘ではなく〈ねむり姫〉なのかもしれない。逆に正体を知れば、騙されたと思うかもしれない。
その夜から、航平の前ではゲームの話を避けた。配信でも恋愛の話題を拾わなくなった。二つの自分が近づくほど、どちらにも嘘が増えた。
一か月後、航平の部屋で映画を見ていると、千紘のスマートフォンが鳴った。
《姫さま、今夜の配信サムネイルを確認してください》
画面には紫の枕を抱くキャラクター。航平にも見えた。
千紘はスマートフォンを伏せた。
「ごめん」
「何が?」
「ねむり姫、私なの。黙ってた。あなたがファンだと知ってから、言えなくなって」
航平はしばらく黙り、鞄のキーホルダーを外した。
やはり嫌だったのだと思った。
けれど彼は、それをテーブルの中央へ置いただけだった。
「まず聞きたい。俺が配信を見るの、嫌?」
「え」
「恋人に見られると話しづらいなら、登録を外す。コメントもしない。秘密を教えたからって、俺が客席へ勝手に入っていいわけじゃない」
千紘は、正体を明かした後の反応ばかり想像していた。自分の境界を尋ねられるとは思わなかった。
「見ていてほしい」
少し考えてから言った。
「でも、配信中は恋人じゃなくて、一視聴者でいて」
「了解。古参ぶらない」
「あと、寝落ちは演出じゃない」
「そこは知りたくなかったな」
航平が笑い、千紘もようやく笑った。
次の配信で、紫のキーホルダーを机の端に置いた。画面には映らない場所だった。それでも千紘には、二つの自分の間に置いた目印のように見えた。
「こんばんは、ねむり姫です。今日は、隠し部屋を開けます」
鍵を回す指は、もう震えていなかった。