押したことのない七階

鳥越絹乃は、十二階までの十二秒を、息を止めてやり過ごしていた。コンサルティング会社の朝は早く、会議は長く、エレベーターの鏡に映る顔だけが日に日に薄くなった。

一週間前、会議中に動悸が止まらなくなった。給湯室でしゃがみ込み、同期には貧血だと笑った。七階に社内相談室があることは知っている。予約不要の札も見た。けれど七階のボタンを押せば、自分の弱さが社内システムへ記録されるような気がした。

母に電話すれば「辞めてもいい」と言われるだろう。同期に話せば心配される。どちらも優しいと分かっているからこそ、絹乃は黙った。辞めたいわけではない。頑張りたいとも言い切れない。その中間の言葉を持たないまま、十二階へ通い続けていた。

その夜、最後の一人になってエレベーターへ乗る。十二を押すと、扉の上の表示が数字ではなく、短い文章になった。

〈何階で、降りるふりをしていますか〉

絹乃は疲れて読めないのだと思った。瞬きをすると、表示が変わる。

〈押したことのない数字を、一つ押してください〉

「地下二階とか?」

返事はない。箱は十二階へ向かうはずなのに、一階で止まったままだった。ボタンは全部白く光り、選ばれるのを待っている。

絹乃の指は十二へ伸び、途中で七の前に止まった。相談室へ行ったからといって、明日の会議が消えるわけではない。上司が優しくなる保証も、動悸が治る約束もない。むしろ「たいしたことではない」と言われる可能性だってある。

それでも、何も起きていない顔を続けるために使う力は、もう残り少なかった。

七を押す。ボタンは頼りない橙色に変わった。エレベーターが上昇し、二、三、四と表示が戻る。鏡の中で絹乃は、襟元を直そうとして手を下ろした。整っていなくても、七階までは運ばれる。上昇の圧で耳が詰まり、絹乃は唾を飲み込んだ。相談室で何を話すかは決めていない。「困っています」の一言さえ、まだ自分のものに思えない。それでも、行き先の数字だけはもう点灯していた。

扉が開くと、廊下の先に小さな灯りがあり、〈相談中でなければお入りください〉という札が下がっていた。

絹乃は閉じるボタンを押さず、片足を七階の床へ置いた。