指定席は海側

塩見美冬は、駅弁の蓋を開ける前に、母からの電話を取った。

新幹線は発車まで十五分。ホームのベンチには、地元銀行の採用試験問題集が紙袋に入っている。母が三年間、毎月新しい版を送ってきた最後の一冊だった。

「今どこ?」

「駅」

「やっぱり帰ってくるのね。支店長さんにも話してあるから、秋採用なら――」

「逆。引っ越すところ」

母の息が止まった。

美冬は東京の舞台照明会社へ転職する。契約社員で、夜の仕事も多い。母には最終面接まで言わなかった。話せば、地元の銀行員である叔父や、母の同級生の娘の給与まで並べられると分かっていたからだ。

「そんな仕事、女の子が何歳までできるの」

「何歳までかは、働きながら決める」

「銀行なら結婚しても戻れるでしょう」

母は美冬を今でも「銀行の子」と呼ぶ。内定を辞退したのは五年前なのに、実家の食卓では支店名まで決まった未来が保存されていた。

美冬は問題集を紙袋から出し、駅の古紙回収箱へ入れた。

「これから、求人や試験日程を送らないで。叔父さんにも連絡しないでって伝えて」

「親が心配して何が悪いの」

「心配するのは止められない。でも、応募先を決めるのはやめて」

発車案内が流れた。母は「お盆には帰るでしょう」と聞いた。

「日程が決まったら私から連絡する。今は約束しない」

「東京で失敗したら?」

美冬は指定席券を見た。窓側、海側。母が切符を取るときは、いつも通路側だった。荷物を持ってすぐ降りられるから、と理由まで決められていた。

一度だけ窓側へ替わったとき、母は「降り遅れても知らない」と言った。美冬は海を見るより、母の機嫌を直すことに時間を使った。今日の切符は、誰にも席を交換してもらう必要がない。

「失敗したら、その話をするかどうかも私が決める」

電話の向こうで、母が何かを飲み込んだ。

「海、見える席?」

美冬は少し驚き、「うん」と答えた。

「じゃあ、写真くらい送って」

「着いてから、送りたかったら送る」

通話を切り、列車へ乗った。海が見えたとき、美冬はカメラを開かなかった。

景色を誰にも提出せずに見る時間が、転職より先に始まっていた。