搭乗口B12
搭乗締切まで、あと十分。
史哉はB12ゲートの前で、玲那の名前を呼んだ。彼女は振り返り、驚いた顔のままパスポートを胸に抱いた。
「どうしてここに」
「出張。そっちは?」
「ベルリン。今日から」
二人が別れたのは一年前だった。史哉の海外赴任が決まり、玲那は「一人で行けば」と笑った。史哉も「そうする」と答えた。それから、どちらも相手を引き止めなかった。玲那が置いていったドイツ語の単語帳は、今も史哉の本棚にある。最初の頁にだけ、二人分の字で発音が書かれていた。
ゲート脇の充電席で、史哉の端末が自動的にクラウド復元を始めた。空港Wi-Fiにつながり、古いメッセージの下書きが一件だけ戻る。
〈一緒に来てほしい。仕事を辞めろとは言わない。向こうで待つから〉
宛先は玲那。作成日は、別れた夜の午前一時だった。
史哉は画面を見せた。玲那はしばらく読んでから、笑うように息を吐いた。
「それ、送ってよ」
「送信済みだと思ってた」
「届いてない」
「機種を替えた日だったから」
搭乗を急かすアナウンスが流れる。残り七分。
「私も、行きたかった」と玲那は言った。「あなたが一人で行くって決めたから、邪魔しないほうがいいと思った」
「じゃあ今、一緒に」
「あなたの便、どこ行き?」
「札幌」
「私はベルリン」
史哉は言葉を失った。かつて二人で選んだ行き先へ、片方だけが一年遅れで向かう。その皮肉を笑うには、ゲートの時計が近すぎた。
玲那は一年かけてドイツ語を学び、現地企業の採用を取った。史哉がかつて行くはずだった街へ、今度は彼女が一人で向かう。史哉の赴任は会社都合で中止され、彼は東京に残った。
「遅いね」と玲那が言った。
「十分くらい?」
「一年と十分」
ゲート係員が最終案内を始める。史哉は下書きの送信ボタンに触れた。
「送ってもいい?」
「機内で読む。返事はしないかもしれない」
それは拒絶ではなく、約束でもなかった。史哉はようやく送信した。玲那の端末が震える。画面には一年遅れの時刻が刻まれた。
彼女は通知を開かず、パスポートを係員へ渡した。
史哉はガラスの向こうへ消える背中を見送った。やがて自分の便の最終案内が流れる。彼は送信済みの表示を閉じ、札幌行きの搭乗券を係員へ渡した。