暗転を一度延ばす

開演五分前、吊られた鏡が、予定より大きく揺れた。

三千人規模の音楽ホール。今日の公演を終えれば、柳瀬環はイベント制作会社を辞める。退職届は舞台進行表の下、クリップボードにはさんであった。客席からは手拍子が響き、舞台上には追加された鏡のパネルが六枚、銀色の壁のように吊られていた。

袖ではスモークの甘い匂いがし、床が低いベース音で震えている。環はこの高揚が好きだった。それでも、終電後の撤収と翌朝の仕込みが当然になり、好きだという気持ちだけでは身体を守れないと知った。先月倒れた同僚の代わりに入った夜も、勤務表では「本人希望」と処理されていた。

環は昇降装置の表示を見て、インカムを押した。

「鏡セット、停止。開演を延ばします」

荷重は許容値の九十八パーセント。数字だけなら範囲内だが、リハーサル時より揺れ幅が大きい。追加された装飾金具の重量が、仕込み表に入っていなかった。

制作責任者が飛んできた。

「もう客電を落とした。二分で始めろ」

「二枚外せば七分で安全域に戻せます」

「見栄えが変わる。落ちなければ問題ない」

「落ちるかどうかを本番で試しません」

環は暗転を解除し、場内アナウンスを入れた。新人の遼が震える手で工具を持つ。

「僕が締め付けを見落としました」

「今は原因より順番。上を無人にする、電源を切る、それから外す。止める声は一回で通らなくても、二回言っていい」

二枚を降ろし、残り四枚の動きを短く変更する。開演は八分遅れた。幕が上がると、鏡の少ない舞台にはかえって奥行きが生まれた。最初の曲が終わった瞬間、客席の歓声が袖まで押し寄せた。

終演後、責任者は報告書の〈荷重超過〉を線で消した。

「機材調整による遅延でいい。事故は起きていない」

環は元の言葉を書き戻し、追加金具の重量と外した二枚を記録した。起きなかった事故ほど、記録しなければ次に近づく。

クリップボードから退職届を外す。止める判断を隠さない場所で働くため、客席二百席の市民劇場から届いていた一か月契約を選んだ。

退職届を渡し、契約書の〈承諾〉へ指で署名する。

舞台はもう暗転していたが、環の次の勤務だけは、はっきり見えた。