最後のバトンは左手に
結月は左利きだった。
それだけなら何でもない。けれどリレーのバトンは、右手で受けて左へ持ち替える練習を、みんな当たり前にしていた。結月だけは持ち替える一瞬で失速し、何度も落とした。
放課後の校庭で、颯生は言った。
「じゃ、俺が左に渡す」
最初、結月は冗談だと思った。だが颯生は自分の走順を書いた紙を破り、受け渡し位置を左側に描き直した。二人のためだけに線を引き、日が落ちるまで何度も同じ二十メートルを走った。
「受け渡しは右って決まってる」
「体育委員がそう言っただけ。法律じゃない」
第三走者の颯生は、右カーブを走りながら左手へバトンを持ち替える練習を始めた。今度は彼が何度も落とした。
一週間、二人の間だけ逆向きの受け渡しが続いた。クラスメイトは危ないと言い、先生も本番では普通に戻せと言った。颯生の左手には落としたバトンを拾う時についた擦り傷が増え、結月の掌には受け損ねた青あざが並んだ。それでも成功した一本だけは、驚くほど音がしなかった。
「戻す?」
前日、結月が聞くと、颯生は土まみれのバトンを拾いながら首を振った。
「失敗するなら、練習した失敗の方がいい」
本番、二人のクラスは二位で来た。颯生がカーブへ入る。結月は左手を後ろへ伸ばした。
足音が近づく。
「はい!」
左の掌に、ぴたりとバトンが収まった。練習で一度だけ聞いた、何もぶつからない静かな感触だった。周囲が叫ぶより早く、結月の身体はもう前へ出ていた。
歓声が遅れて聞こえた。結月は走った。先頭との差は三メートル。得意な左腕を思いきり振る。バトンは身体の一部になり、直線で相手を抜いた。
ゴール後、クラス全員が結月を囲んだ。けれど結月は輪を抜け、まだ息を切らしている颯生のもとへ戻った。
「左で受けた」
「見れば分かる」
「一回も持ち替えなかった」
「それも見た」
結月はバトンを差し出した。颯生が右手で受けようとする。
「違う」
結月は笑い、彼の左手へ置いた。
表彰台で掲げたバトンは、誰にとっても同じ一本だった。
でも二人だけは知っていた。最後の数センチは、左手のために空けられていた。