最後の一息のあと
綾部は共有ボンベから一度だけ深く吸い込み、次の瞬間、排気弁を全開にした。
白い霧のような酸素が天井へ噴き上がる。
「やめろ!」
向かいの椅子に拘束された赤城が、交代用マスクへ首を伸ばした。二人の間には一本の大型ボンベと一本のホース。拘束具は外れず、できるのは交互にマスクを受け取ることだけだった。
壁の規則は一文。
《共有ボンベが空になった時、そのボンベから最後に酸素を吸った参加者を勝者とする》
主催者は、残量が減るほど二人が順番を譲らなくなり、最後にはホースを奪い合うと考えていた。赤城も同じだ。だから序盤は呼吸を浅くし、綾部に多く吸わせようとしていた。
だが綾部は三巡目、自分の呼吸を終えると、マスク根元にある銀色の排気弁へ親指を掛けた。
残量計が四十二、二十、七と落ちていく。
赤城は拘束具を鳴らしながら叫ぶ。
「俺はまだ吸っていない! 交代前だ!」
「だから開けた」
針がゼロへ触れた。噴射音が止み、静寂の直後に緑のランプが点灯する。
《勝者、綾部》
「酸素を捨てただけだぞ」
「規則は、全部を人間が吸えとは言っていない」
綾部は肺に残した一息で答えた。問われたのは、空になった原因ではなく、空になった時点で最後に吸った者が誰か。その順番は、排気弁を開く直前に確定している。
赤城は主催者へ抗議したが、スピーカーは沈黙した。排気弁には封印も警告もなく、《EMERGENCY PURGE》と刻まれていた。運営自身が安全のために付けた仕組みを、勝利条件から除外し忘れたのだ。
綾部の拘束だけが外れる。
壁の記録窓には《最終吸気認証 綾部》と残っていた。マスクの流量センサーは、誰が何秒に吸ったかだけを判定し、排出された先までは問わない。赤城が弁を閉めようとしても、拘束席からは指一本届かない配置だった。主催者が奪い合いを長引かせるために作った距離が、綾部の一手を確定させた。
彼は残った息をゆっくり吐き、空のボンベを一度叩いて立ち上がった。