月に消える黒衣

 黒いドレスを着て月光へ出ると姿が消える。ただし一分ごとに、着る者を愛する人が一人、その存在を忘れる。

 サフィアは牢獄の塔を見上げ、月が雲から出るのを待った。

 塔には、彼女を密偵として育てたロアンが捕らえられている。処刑は夜明け。正門から救い出すには、月明かりの回廊を三分走るしかない。

 一分目で忘れるのは、たぶん故郷の母ベルタだ。

 二分目は、パン屋で帰りを待つ親友。

 三分目は――ロアン自身かもしれない。

 母の台所には、サフィアの背丈を刻んだ柱がある。親友の店には、彼女専用の欠けた木杯がある。ロアンの机には、初めて任務を終えた日に渡された銀貨を、使わず返したときの傷が残っている。忘れられれば、そうした物だけが持ち主のない謎になる。サフィアの人生は消えない。ただ、誰の記憶にもつながらない遺失物になる。その孤独を想像すると、月光より冷たいものが背中を走った。

「それでも行くのかい」

 闇市の老婆が尋ねた。

「忘れられたら、助ける意味がないと思う?」

「意味を決めるのは、覚えている側さ」

 月が出た。

 サフィアは黒衣の襟を留めた。指先から輪郭が薄れ、石床に影だけが残る。

 一分。見張りの間を抜ける。

 遠い家で、母が娘のために残していた椅子を、不思議そうに片づける光景が胸を刺した。事実を見たわけではない。それでも、もう「帰っておいで」と書かれた手紙が自分宛てではなくなったことが分かった。

 二分。鍵束を奪い、階段を駆け上がる。

 親友と分けた焼きたてのパンの匂いは残っているのに、次に店へ入れば客として迎えられる。サフィアは涙を飲み込んだ。

 三分。牢の扉を開ける。

 鎖につながれたロアンが顔を上げた。サフィアは月陰へ入り、姿を戻した。

「迎えに来た」

 ロアンは警戒して壁際へ身を引いた。

「誰だ」

 予想していた二文字なのに、胸の奥が裂けた。

 サフィアは鎖の鍵を開け、知らない女を見る彼の手に短剣を握らせた。

「あなたに、逃げ方を教わった者です」

 夜明けまで、あと四分。彼女はもう一度、月光の中へ踏み出した。