月を一つ進める
久世汀が月窓時計舗へ持ってきた腕時計には、文字盤の下半分に小さな月が浮かんでいた。
青い円盤が少しずつ回り、満ち欠けを示す。ところが現実の月より十二日も遅れている。時計そのものは正確なのに、空だけが昔に取り残されていた。
汀は半年前、フィンランドの陶芸工房が募集する滞在制作へ応募した。採用通知が届いたのは昨日。期間は六か月で、出発は二か月後。会社には休職制度があるが、使った人はいない。上司からは以前、「半年空けたら席は同じと思わないで」と笑われた。
応募したときは、選ばれない前提だった。選ばれた今は、断る理由がいくつも見つかる。家賃、言葉、冬の暗さ。返信期限は今夜である。
汀は月齢表示を直さないまま使い続けていた。遅れているのが時計だけなら、気づかないふりができた。工房への返事も、十二日後の自分へ回したいと思っていた。断れば、月だけを直して帰れる。
店主は時計を柔らかな台へ載せ、ケース側面の小さな穴へ細い棒を差し込んだ。一度押すたび、月の円盤が一日ぶん進む。
一日、二日、三日。
汀は数えるのをやめた。店主は急いで十二回押さず、一回ごとに月の位置を確かめた。半月が細くなり、暗い部分から次の月が現れる。
調整を終えると、店主は窓際へ時計を置いた。曇った夕空に月は見えない。それでも文字盤の月は、今日の形になっていた。
店主は修理票の症状欄に〈月齢遅れ〉、処置欄に〈追送り〉と記した。〈初期化〉ではなかった。
汀は会社の休職申請画面を開いた。理由欄へ〈海外滞在制作参加のため〉と入力する。キャリア形成、技術研鑽、将来への還元。飾る言葉を並べかけて消し、事実だけを残した。
次に工房へのメールを開き、参加承諾を送る。
店主は時計を濃紺の布へ包み、月の部分が押されないよう、その箇所だけ丸く空間を作った。汀が受け取ると、布の中でも秒針の音がしていた。
外へ出る前に腕へ戻す。十二日遅れていた月は、一度も空を飛ばず、一日ずつ進んで今日へ来ていた。