朝の壺と湖の舟
月岡ミナトは王宮厨房の洗い場で、毎晩最後まで残る人間だった。
灰色の作業着は胸元が漂白剤でまだらになり、袖口には熱湯で縮んだ跡がある。料理長の呼び鈴は、勤務が終わっても鳴った。未読の緊急連絡には「宴会追加」「皿が足りない」「下働きなら黙って来い」。退職した翌朝にも、同じ命令口調が三通届いた。
湖畔の村へ移ったミナトに発現したのは、無限収納だった。入れた品は温度も香りも変わらない。彼は王宮で捨てられていた端切れ野菜を思い出し、村の農家から形の悪い野菜を安く買って、具沢山のスープを大鍋で作った。
宿場に置いた《朝の壺》へ収納口をつなぐ。旅人が銅貨を入れると、熱いスープが一杯分だけ注がれる。夜明け前に起きる必要はない。鍋を見張る必要も、遅刻した客に怒鳴られる必要もなかった。壺は量を測り、器を温め、売上をミナトの帳簿へ送った。
開店から十日目、湖で小舟を磨いていると腕輪が震えた。
《自動販売:四十六杯》
《今月の住居費・食費・薪代を確保》
王宮の一晩分の賃金にも届かない。それでも、この額は彼に「今日はもう作らない」と言う権利をくれた。
村の老人が壺の前で帽子を取り、「朝飯が熱いだけで旅はずいぶん楽になる」と呟いたことがある。ミナトは礼を言われても、次の皿を急いで洗う必要がなかった。その言葉を、ゆっくり受け取れた。湖の風は、料理長の笛より小さく、ずっと遠くまで届いた。
そこへ料理長から通話が入る。
「今夜、隣国の使節が来る。戻れば副料理長にしてやる」
ミナトは笑った。洗い場の人間に十二年、副料理長の話など一度もなかった。
「戻りません」
「恩知らずめ。食わせてやったのは誰だ」
「残飯を立ったまま食べたことなら、よく覚えています」
通話の向こうで怒鳴り声が膨らむ。ミナトは腕輪の業務連絡を遮断し、古い作業着を雑巾に切った。一枚で小舟の座板を拭き、もう一枚は薪棚へ置く。
湖面は風もなく、昼の光をゆっくり返していた。彼は無限収納から釣り竿と小さな弁当を取り出し、舟を岸から押し出した。