期限のない付箋

「この件、リリース後」

鳴海果歩と高瀬佑真の間では、その一言が便利な蓋になっていた。

新サービスの公開まで三か月。二人で夕食へ行きかけた夜も、休日の映画の話になった昼休みも、どちらかが黄色い付箋にそう書いて、相手のモニターへ貼った。今は仕事に集中する。その約束だけは、きれいに守った。

公開当日の午後十一時五十八分。開発室には冷めたピザと、無数の付箋と、二人だけが残っていた。

「エラー率、基準内」

「決済、問題なし」

「問い合わせ、ゼロ」

果歩が読み上げ、高瀬がチェックを入れる。午前零時、画面中央の表示が赤から緑へ変わった。

――RELEASE COMPLETED.

二人同時に息を吐いた。誰もいないのに小さく拍手をし、すぐ照れて手を下ろす。

「終わりましたね」

「終わった」

高瀬はそう言いながら、果歩のモニターの縁に貼られた付箋を一枚ずつ剥がし始めた。「新しいカレー店」「駅前の映画館」「休日の水族館」。仕事と無関係の話題が出るたび増えた、先送りの記録だった。

最後に残ったのは、三か月前、果歩が勇気を出して書いた桃色の一枚。

〈リリースしたら、二人でお疲れ会をしませんか〉

その下には、高瀬の字で〈この件、リリース後〉とある。果歩はずっと、遠回しに断られたのだと思っていた。

高瀬は付箋を裏返した。そこには今日の日付と、午前零時一分。そして駅前の店の名前が書かれていた。

「予約、零時半です」

「こんな時間に?」

「リリースが延びたらキャンセルするつもりでした。でも、何度延びても取り直すつもりでした」

彼は付箋を果歩の手のひらへ貼った。剥がれないよう押さえた指が、そのまま彼女の手を包む。

「これは打ち上げですか」

「二人で呼び方を決めるための時間です」

果歩は空いた手でペンを取り、付箋の余白へ〈承認〉と書いた。続けて、期限欄に横線を引く。

高瀬が社内チャットを閉じ、果歩のコートを取った。部屋を出るときも、つないだ手は離れなかった。

「この件、リリース後」

三か月も二人を止めていた言葉は、もう先送りではない。

リリース後とは、今からのことだった。