本を忘れる席

美冬は喫茶「頁」の四番テーブルで本を読む。壁と観葉植物に挟まれた、一人用の狭い席だ。

土曜の午後、いつものように文庫を開くと、前回挟んだはずの栞がなかった。代わりに、薄い青色の紙片が挟まっている。

〈この先、紅茶が冷めるほど面白いです〉

知らない筆跡だった。顔を上げても、店内には新聞を読む男性と、刺繍をする老婦人しかいない。店主の佐宗に聞くと、眼鏡の奥で笑った。

「その本、先週ここに忘れていきましたよ」

翌日取りに来るまで、同じ席を使った客が少し読んだらしい。

美冬は紙片を栞にして読み進めた。予告どおり物語は速度を増し、気づけばポットの紅茶はぬるくなっていた。ベルガモットの香りだけが、カップの縁に薄く残っている。

読み終えたとき、外はもう夕方だった。最後の頁を閉じると、誰かと長い会話をしたような気持ちになった。

次の週、美冬は同じ席のテーブルに一冊の本を見つけた。古びた海外小説で、表紙の裏に鉛筆書きがある。

〈忘れ物ではありません。もしよければ〉

佐宗は何も知らないふりで、熱い紅茶を置いた。

美冬はその本を読み始めた。文章は少し難しく、何度も同じ行を戻った。それでも途中で閉じなかった。店の時計が鳴り、客が入れ替わり、窓から差す光がテーブルの端まで移動する。

帰る前、青い紙片の裏へ書いた。

〈三十二頁の雨の場面が好きでした。次はあなたの好きな本を〉

紙を挟み、本を四番テーブルに残す。扉へ向かう途中、美冬は一度だけ振り返った。

湯気の消えたカップの隣で、青い栞がほんの少し覗いていた。まだ顔も知らない誰かへ、温度の残った椅子を譲るようだった。

翌週まで待つつもりだったが、火曜日にはもう店の前まで来てしまった。四番テーブルは空いている。けれど本はなかった。美冬が少し落胆して紅茶を頼むと、佐宗が棚の奥を示した。青い紙片を挟んだ本が、次の一冊と並んで待っていた。