柚子味噌の焼き大根
閉店の十五分前から客は一人もいなかった。店主が布巾を絞ったところで、若い男がそっと戸を開けた。
「何か、すぐ出るものを」
店主は炊いてあった大根を取り出し、「焼く時間だけ」と答えた。
厚い輪切りが網に載る。水分が落ちて、じゅ、と炭が鳴った。表面へ塗られた味噌はふつふつ膨らみ、焦げた甘い匂いを立てる。最後に削った柚子の皮が散らされると、明るい香りが湯気に混じった。
男のスマートフォンには、姉からの着信が七件残っていた。父が手術を受けたことは知っている。成功したこともメッセージで読んだ。それでも折り返せなかった。入院前に父と口論し、「もう勝手にしろ」と言ったままだったからだ。無事だった今さら電話をすれば、心配していたことまで知られてしまう。着信音が鳴るたび、画面を伏せて、仕事中だったことにしようとした。
大根を箸で切ると、焼き目の下から透明な出汁がにじんだ。中心は白く、湯気が一本のぼった。
「遅く来たのに、手間かけさせました」
男が言うと、店主はまな板を洗いながら答えた。
「冷めても、味は逃げません」
味噌のことだけを言った声だった。
男は端から食べた。焦げた味噌は少し苦く、その下の大根は驚くほど甘い。出汁を吸った中心は熱く、舌の上でほどけた。柚子の匂いが、冬の実家の台所を思い出させた。父は毎年、皮を厚く剥きすぎて母に叱られていた。
電話をかける勇気は、まだ出なかった。代わりに明日の朝七時、姉へ発信する予定を入れた。メモ欄には《父の具合を聞く。謝るかどうかは、そのあと》と書いた。全部を一度に言おうとすると、また何も言えなくなる気がした。
父との口論は残っている。姉に責められるかもしれない。退院後に会えるかも分からない。それでも、着信履歴を削除するのはやめた。
店主が暖簾を外すころ、大根はもう湯気を失っていた。最後の一口には焦げた味噌と柚子の香りが濃く残り、冷めかけた中心だけが、口の中でまだやわらかく温かかった。