歌を取り戻す代わり

劇場の扉には、セシェの名を金糸で縫った幕が掛かっていた。

けれど初日の三日前、彼女の喉から歌だけが消えた。話せる。笑える。泣き声も出る。ただ、旋律をつけた途端に空気が抜ける。

代役を立てれば、旅回りの一座は王都の劇場を失う。今回の公演には、衣装係の娘たちも、舞台を組む老人たちも、借金をして同行していた。成功すれば来年の契約が取れる。失敗すれば、一座はそれぞれ別の町へ散る。

座長は「喉を守れなかったおまえの責任ではない」と言った。その優しさが、かえってセシェを追いつめた。彼女は夜明け前、「失せもの声店」の戸を叩いた。

店主は細い硝子管に透明な薬を注いだ。

「歌声を戻す代金は、あなたが自分の声を好きになったとき、そばにあった誰かの声」

セシェには一人しかいなかった。

下働きだった十五歳の頃、低い声を笑われ、台詞すら任されなかった。衣装係の老女イーダだけが、暗い客席で彼女に歌わせた。胸を張れとも、大声を出せとも言わず、客席の最後列に古い帽子を置き、「あれへ話しかけな」と教えた。

――高く飛ばなくていい。あなたの声は、夜の川みたいに遠くまで行く。

その言葉から、セシェは自分の低音を隠さなくなった。イーダは去年、冬の巡業先で亡くなった。残っているのは声の記憶だけだった。

「言葉は覚えていられますか」

「文章は残る。誰の声で、どんな温度で言われたかが消える」

薬を飲めば舞台に立てる。飲まなければ、一座は帰る場所を失う。けれど飲めば、歌うたび背中を押してくれた声が、ただの文字になる。

セシェは劇場の鍵を机へ置いた。

「この声でお願いします」

硝子管が淡く震えた。記憶の中でイーダの口が動く。夜の川、という言葉だけを残し、響きが消えた。

薬を飲む。

喉の奥に、冷たい水路がひらいた。

セシェが一音だけ歌うと、店の窓硝子が低く震えた。完璧な音だった。けれど、なぜその高さを選んだのかは思い出せない。

遠くで開演を告げる鐘が鳴る。

彼女は知らない誰かの言葉を胸に、幕のほうへ歩き出した。